毎日過熱報道が続く

滋賀県大津市の

いじめ問題。


30年以上前の

僕らが中学生の時も

いじめ問題はあり

その時から

実際には

いじめの質も殆ど変らず

今日まで全くと言っていい程

解決されていない。


昔は遊び程度のものでとか

昔は助けてくれる生徒もいて


とか

いじめ問題につき

時に昔を美化した話が

登場することがあるが


いじめ問題は

少なくとも30年前からは

悲劇的なものであり

そんな遊び程度とか

それを解決するヒーローとか

テレビドラマではいたが

リアルにはいなかったのが

現実である。


それはいじめは攻守入り乱れ

いつ何時自分がその真ん中に

立つこととなるかわからない

現場の子供達にとっては

地獄の綱渡りをしなければ

ならないからだ。


とは言え

一人強烈な悪い奴がいれば

たった一人が何色にでも

できてしまうのが

これまたいじめの本質であり

一人が悪いという時も

本当にあるだろうという事を

リアルには敢えて付け加えておく。


今回の事件を観ていると

全く昔も今も変わっていないのが


学校内の小さないじめから

さらには家の中を荒らすようになり

最後は金品目的に変わるという


そのエスカレートしていく仕組み。


この仕組みが特段

最近になって

悪質になって来たということはない。


いじめは30年前から

エスカレートするシステムがあり

そこばかりはいじめが生まれた

最初から悪の進化を完了している

ような気がする。


何事でもわからないものは

そうすべきだと思っているが

いじめとは何かなど

結局はわからないからこそ


いじめ問題を考える時にまずは

いじめのメカニズムを分解することから

始めなければならないのでは

ないだろうか。


まずいじめの最大の問題は


“日常化”


というキーワード”ではないだろうか。


いじめは

今回の大津市のような

大きな事件になると

事実確認の為に

報道は時間軸に乗せて

何月何日こんないじめがあった

体育祭の日にこんないじめがあったと

時系列に並べていくが

いじめは

その日に突然降って湧いたように



で起きているのではなく


日々瞬間瞬間

日常化した



として

恒常化し

無間地獄のように続くところが

ポイントではないだろうか。


大人たちはすぐ


死んだ蜂を食べさせた


などという大きな点を

クローズアップするが

それ以上に一秒一秒

つねにいじられている


そのインターバルのない

呼吸のできない痛みが


最大の苦しみなのではないだろうか。


果たして

いじめ問題は

どうして生まれ

なぜいつまで経っても

なくならないのか。


それは全て大人のせいである。


そう仮定しよう。


今は

いじめのメカニズムの分解を

すると同時に

いじめとは何かを証明するという

無謀なことへの挑戦の為の時間

なので

一度仮定することは重要であるし

仕方ない。


まず

大人は子供の頃の記憶を

あまりにも忘れがちである。


僕は10歳の時に

映画監督になりたいと決め

それから重要なポイントでの

記憶は大人になった時に

何か使えるのではないかと

あえて記憶スイッチを入れ

鮮明に覚えようとしている事は

書籍やブログで書いて来ている。


そして

必ず被害者にもなり加害者にもなる

瞬間があるのもいじめの本質である。


例えば

誰もが一度はクラスで

無視されたこと

無視することに加担したこと

があるのではないだろうか。


される側は

それがたった5分でも地獄である。


僕もどちらも経験があることを

記憶している。


その時の辛さを

僕は記憶スイッチを入れて

憶えようとした。


その辛さを言葉にするならば

世界で起きいているだろう戦争や

飢餓や核開発や世界滅亡の日や

そんなことはもはやどうだっていい

というそれ程その子にとっては

耐えられない地獄なのだ

ということを覚えておこうと思い


もし将来自分の子供が

いじめにあい相談をして来たら

自分の事を全てを放っても

そのいじめの件だけに

真剣に向き合うべきだ

という事も覚えておこうと記憶した。


子供が親や教師など大人に

自分のいじめを相談するという瞬間は

子供にとってはとんでもない勇気が

必要となる。


それにも拘らず

その勇気を振り絞り

告白してきた子供に向かい


「そんなのやりかえしてこい」


とか

ましてや


「気のせいだ」


とか取り合わない


あの頃の記憶をあまりにも

忘れてしまった大人たちが

いじめ問題を曖昧にし

減らすことができずにいる

のではないだろうか。


それが証拠に

大人たちは

いじめ問題に

何をしてきただろうか。


ある話によれば

1980年に当時の文科省は

いじめをふざけ合いなどという

言葉に置き換え

ある種いじめなどというものは

ないのだという風潮を作り上げた。


悪巧みをする子供は

そこに増長していく。


この昭和55年が

いわゆる今の

いじめ問題元年という人も多い。


いじめには


いじめ



いじめ問題


があるのではないだろうか。


いじめは昭和55年前からあり

今語られているのは

この30年何も変わらない

文科省や学校や教育委員会の

煮え切らない対応を含めての


いじめ問題


であり


これは昭和55年を元年と

するのかも知れない。


話を戻そう。


そしてその結果か

その6年後の

1986年

鹿川くん事件が起き

上にも書いた

激しくエスカレートしていく

いじめが表面化し


ここからまた

大人たちはこれまた

歪曲した照明を

いじめ問題にあてはじめる。


なぜ歪曲するかと言えば

子供の頃の感性の記憶が

明らかに欠落しているにも

拘らずいじめの本質に対し

勘で進めてしまうから

ではないだろうか。


自殺とその遺書により

いじめのエスカレートぶりが

大きく表面化したのが

この事件だったと記憶しているが

実際はここまで表面化していなくても

各学校単位では少なからず

すでにその頃

まさにこういうことは

“日常化”していたはず

ではないだろうか。


そしていじめ問題は

この30年で


現場のいじめを目の当たりにする

子供達と


子供の記憶を喪失した

いわゆる偉い大人達の


いじめというものに対する理解の


乖離現象が


進んでいったように見える。


そしてさらに

ここ最近の方針が

最も問題である。


5年でいじめを減らそうと

文科省が数値目標を掲げた事だ。


以前このブログで


『数字を旗印にするな』


という記事を書いたことがあるが

旗印を数字にすると

いくらその数字をクリアしても

必ず大きな危険とデメリットで

しっぺ返しをくらう。


旗印には数字ではなく


理念を書くべきなのだ。


いじめ撲滅〇%

などという数字の旗印を掲げてしまえば

各地域各教育委員会各学校は

いじめが少ないいやないということを

報告したいに決まっている。


子供の頃の感性の記憶はない大人ほど

大人ならでは保身が大好物になるもんだ。


もはや

いじめをなくす

目的と手段を取り違えてしまっている。


旗印は子供の笑顔じゃないのかい。


数値目標なんてくそくらえ。


そんな数値

出たところで

あてになる訳がない。


何度も言うが


いじめは日常と化し

恒常化し

エスカレートし

最後は家に行き

金に辿り着くのは

火を見るより明らか。


途中から教師の見えない家

に行くのだ。


だからと言って

だから関係ないという

理論に学校や教育委員会や教師は

辿り着きそうだが

それも数値目標でいじめを語るから

ではないだろうか。


もちろん

素晴らしい教師や学校や教育委員会も

あるだろうが

それらの方々も一緒に語られるのも

もういやだろう。


だから

それぞれが立ち上がるしかない

のではないだろうか。


いじめ問題は根深い。


大人が子供の頃の感性の記憶を

忘れてしまう人が多いという話だが


以前ある番組で

かつて

自分をいじめた相手に

「なぜあの時自分をいじめたのか」

ということを言いに行くという企画を

やった事があるのだが

何度やってもいじめていた相手の

答えは


「俺が?お前を?」


というものだった。


いじめた相手は

いじめた記憶もないのだ。


しかし

いじめられた方は

鮮明な記憶として残る。


これがいじめの原点では

ないだろうか。


よく学校や文科省が


「じゃれあいやふざけやいたずら」


とか言うが

それもやられている側が

辛いと考えれば

いじめなのではないだろうか。


いじめは瞬間的ではなく

恒常的に日常化しているのが

辛いポイントなはずである。


それがエスカレートしていく

悪魔のルール。


だから

やられている方がいやなら

いやなのである。


しかも

頭のいい悪い奴らは

そのじゃれあいにしてしまえば

学校にいる大人は誤魔化せると

いじめている相手にも

ちょっとやりかえさせたりすることを

強迫するだろう。


それぐらいの言い訳作りは

彼らにとってはお手の物だ。


整理しよう。


いじめは

子供の頃の鮮明な記憶がない

大人たちによる

事実確認ばかりに偏り

結果数値化された旗印を

振り回すことにより

30年も何も解決しないという

異常現象が起きている理由

なのではないだろうか。


この30年

どれだけ世の中は社会は

変わっただろうか。


ここまで変わらない事も珍しい。


そこには

子供の頃の鮮明な記憶を持つ

大人達が必要である。


自分もだが

物作りをしている人間達は

少なからず子供の感性の記憶を

仕事にしている人間が多い。

そういう人間達が

いじめ問題の中枢に入り

数値化でなく

空気やニュアンスとしての

根幹に目を向ける対策が

最も必要な気がする。


だから

そういう子供の頃の記憶を

鮮明に持つ人間達にとっては

文科省や学校や教育委員会が

発する計画や言葉など

「は?」しかない。


まさか

そんなこととは

思ってもないだろうが。


ではどうやったら

いじめはなくなるのだろうか。


もともと

いじめ問題元年の前から

いじめるということはあった。


浦島太郎の子供達は

カメをいじめている。


いじめはなくならないだろう。


ただ

30年前からの

エスカレートし

家で金と自殺に辿り着く

ことの現象への抑止は可能

ではないだろうか。


例えば

ソーシャルである。


もちろん

逆にプロフなどネットによる

新たないじめ問題も増えている

ことも知っている。


しかし

文科省や学校や教育委員会が

もっとソーシャルを理解し

歯を磨くように使えるようになれば


例えば

誰かをいじめようとしても

誰かがソーシャルで地域的

また強烈にやるならばネットだから

世界的に名前を公開されてしまうぞ

と思えば

いじめる側もいじめをしようとする行動を

抑止する力が生まれないだろうか。


それ程

強烈なことが

いじめには起きているという事だ。


そのソーシャルにより

今度はいじめられる側や

そのモンスターペアレントが

さらなる力を持ち

逆のいじめが生まれるという

ことももちろん考えながら

やならければならないが


エスカレートしていく中


そしてそれを

なかなか親や教師に言いにくく

なぜならばそのいじめの矢印は

自分に向かいかねないから

言いだせない中


ソーシャルならば

言えるのではないだろうか。


実際にこのソーシャルは

一度も使われなくたっていい。


それがあることが

抑止力になればいいだけだ。


いじめとソーシャルは

意外と使い方次第では

この長きに渡る30年いじめ戦争に

多少の光を射すのではないだろうか


と最近考えている。


問題は山積みだとは

わかってはいるが

何かは変化と進化させなければ

また同じことを

30年繰り返すこととなる。


いじめ問題の

根が深くなり

大人が子供の頃の記憶を

なくしてしまい

問題が解決しにくい理由の

一つとして


例えば


その中学のいじめをしている

中学生を

関係性のない僕らは

全く怖くないというところに

いじめ問題の仕組みの

心臓部がある気がしている。


だって

関係性ないし

その教室にいなくてもいいし

その教室

その学校

その今まさにいじめられている

生徒たちの

そのいじめている中学生への

恐怖心に比べたら

何もないに等しい。


要は

傍から見れば

そいつらが怖くなく

中にいると世界一怖い

という図式が

頭だけで大人になった

人達にはいじめ問題自体が

腹落ちしていないことが

30年も解決していない

所以なのではないだろうか。


文科省

学校

教師

教育委員会


いじめなんてなんとかなる


とか


そんなに怖いかねそいつらが


とか


どっかで思ってんじゃねーか。


だって

俺怖くねーし。そいつらのこと。


とかマジで考えてそうで

その方が怖ろしわ。


そんなこと考えてる大人は

間接的にいじめに加担していると

思った方がいいのではないだろうか。


この30年

いじめ自体が陰惨に進化している

ように語られるが30年前も

めちゃくちゃだった訳。


その内容も

彼らが大好きな数値も

どちらも変わってないのが

問題なのだ。


そんな人達に

ソーシャルはいじめの抑止に利くかも

なんて宇宙語で喋るぐらい遠いんだろう。


いじめ問題撲滅を

包括的に抜本的に

そして一番は子供の記憶で

プロデュースし直す必要がある

のではないだろうか。


おちまさと


もちろん

タイトル通り


『いじめとは何か。』


と答えなど出ない。


しかし

何か考えなければならない。


子供が生まれて益々

それを考える。


ソーシャルと

傍から見たら怖くないという

いじめの本質と

国が

子供の記憶が鮮明な

大人のクリエイター立ちと組む

ということで

何か突破口がある気がしてるのだが。


また

今こうして表面化している時

多分

多少の抑止力が利いて

いじめる側の子供達は

やりにくいはずである。


ま、それでもかんけーねーし

とやるのがそういう子供達なのだが。


多少は抑止力が利いているはずだ。


今この時間も

まさにこのいじめられてるのは

自分も全く同じ状況だ

という子供が日本中にたくさんいる。


また

変な話だが

311みたいな事が起きた時

震災の現場にも

310まで執拗ないじめを

続けていた

やられていた被害者も加害者も

いたに違いないのだが


その子供達は

ああいう大きな

それどころではない出来事が

起きた後

どういう関係性になったのだろうか。


そういう

ところにも

いじめ問題の解決の糸口が

あるような気がするのだが。


書いても書いても

難しい問題である。


それが

いじめ問題の本質であり

迷宮になりがちな根幹でもある


のではないだろうか。