何を言語化された時に

心を揺さぶられるかと言えば


違和感を言語化


された時

ではないだろうか。


普通では


ざわざわするこの感じ

もやもやするこの想い

ざらざらとしたこの気分


などとしか表現できないところを


それらの原因を

誰かに言語化され

取扱説明書的に文章化されたものを

読んだ時に


そう!それ!


となるのだろう。


だからこそ

違和感の言語化は

最も難しい作業かもしれない。


なぜ難しいのかと言えば

そこには経験や体験や

またはボキャブラリーや

共通点を探しての比喩や

または映像が浮かぶような視点

など沢山の才能が

必要となってくるから

かもしれない。


違和感を言語化する時は

単なる怒りや否定など

声が大きければ大きい程

意外と伝わることが薄れていく。


例えば


「何か最近世の中変じゃね?」


「さっきのあいつの行動

何か気になるけど

何が気になってるんだ?」


というまさに違和感を感じた時に


「今の世の中おかしーんだよ!

ふざけんな!バカ野郎!コノヤロウ!」


「さっきのあいつの態度

気にくわねー!」


ということでは

意外と伝わらない。


上でも書いた


ざわざわ

もやもや

ざらざら


という「何だろこの感じ」

という違和感こそ

かなり懇切丁寧に

普通のトーンの声で

説明していくことが

重要なのではないだろうか。


最近

よく聞く言葉の一つ


「今の刺さったっス」


という何かのコメントに対しての感想で


「刺さる」


という言葉があるが

以前で言えば


「腹落ち」



「今の落ちたっス」


という


(何でっスってキャラばかりに

なってるか分からないっス。)


落ちるより刺さるが

使われていて

刺さる>落ちる

傾向がある気がするが


その刺さるや落ちるを生むのは


この違和感の懇切丁寧な言語化


がとてもポイントなのではないだろうか。


その懇切丁寧さと言えば

ジブリ作品で

雨の滴が一枚の葉っぱの上を

スルリと滑り最後は葉の先で

一瞬止まりそこから土に落ちる

というアニメーションを作るぐらいな

懇切丁寧な勢いかもしれない。


その違和感の言語化の

天才たちが小説家という方々

なのではないだろうか。


常人がうまく表現できないを

まさに言葉で浮彫にしていく。


言語化されてしまえば

そういうこと!であり

それは一瞬にして


『〇〇あるある』


に変わってしまう。


しかし

読者はそれを読むまでは

口に出して表現できない。


もしかしたら

様々な感想も同じかもしれない。


「何かいい!」

「何か最高!」


しかし

具体的な言葉では

言語化できない。


まさに自分がいいと感じている

ものさえも違和感となっている

時代なのかもしれない。


だから

誰かの感想を読むと

「それ!」

となるケースが多い人もいる

のではないだろうか。


それは

映画やライブの感想だけでなく

世の中の出来事でも

同じである。


大きな天災や人災や

事件や政治や景気や

報道や流行やお金や


様々な出来事に対して

誰もが

ざわざわ

もやもや

ざらざら

した違和感を感じているはずだ。


しかし表現できない場合

それを普通の声のトーンで

言語化できる人間がいれば

「それ!」と着いていくこととなる。


例えそれが


正しいか


または


ダークサイドだろうが。


だから怖い。


だからこそ


自分で違和感を言語化する力


をある種のコメント力を

つけていかなければ

恐い時代に突入しているのでは

ないだろうか。


先程書いた

違和感の言語化の天才たち

である小説家の中でも

毎作品で本当に驚愕するのが


僕は

角田光代さんである。


ここから数行

気をつけて書きますが

多少ネタバレありなので

これから読もうとしている方は

飛ばしてください。


例えば

『紙の月』という作品の中で



出会ったばかりの時は

純粋な夢見る大学生だった

男と付き合い始め

お金に不自由ない生活を

与え続け


時間が経ちふと気づくと

お金を与えていた女は

何か違和感を感じる。


そのざわざわした気持ちを


角田さんは

ある日のオープンカフェの

パラソルで描く。


パラソルの位置が悪く

陽が射してしまっている時

そのかつて純粋な大学生は

そのパラソルの位置を

カフェの店員に指示し

直させる。


この些細な行動を見て

女は違和感を感じる。


一体いつからこの大学生は

お金を与えられることを

当たり前と思うようになったのだろう

という女の心の動きを描いている。


これが

もっと直接的なお金のシーンで

描かれればわかるが

記憶や印象は2日もすれば

スルーしてしまうかもしれない。


この

パラソルの位置を

店員に直させる指示をする

というところで

丁寧に描かれるところが


まさに


刺さる。


さらに言えば

ここで暫く店員は

その指示を忘れて直さない。


そこで

大学生はもう一度指示して

直させる。


細かい。

がここが

違和感の言語化の

懇切丁寧な

ジブリで言えば

葉の先で一回滴が止まる

ということだろうか。


だから伝わる。


声は普通のトーンだ。


角田光代さんは

違和感の言語化のキングである。


女性だから

クイーンとか言いたくない。


王様だ。


だから

角田光代作品に触れる度に

もっともっと

自分も

違和感の言語化ができるように

ならなければと思うのと同時に


今の真実が見えてこない時代


個人個人の

違和感の言語化する力は

つけていかないと

恐ろしいことになる

と思う時がある。


おちまさと


現在新幹線で

執筆中。


トンネルに入る度に

ネットは切れ

その度に全部記事が

飛びそうな気がして恐い。


もっとトンネルだろうが

地下だろうが

どこでも繋がる時代に

ならないものか。


韓国なんか

どこでもって言ったら言い過ぎだが

殆ど繋がるからね。


10年前ぐらいに

国をあげて環境整備してるからね。


日本は遅い。


だから

韓国の人ネットネイティブな人多い。


トンネルから抜けた

かと思ったら

またトンネルだ。


今の日本っぽい。


昨日消費税法案

民自共に

2014年4月8%

2015年10月10%

とか言ってるが

その時の政権なんか

誰も予想できない。


本当に消費税増税する前に

削る無駄はないのかね。


ない訳ないね。


でも

消費税増税まっしぐら。


原発は再稼働。


国民はまさに


違和感。


だけど


言語化できず。


普通の声のトーンで

全員が言語化できたら

違和感は吹っ飛ぶはずだが


国の頭のいい人が

上手に言語化してしまえば

大衆はそれについていくしかないような

状態となっているのではないだろうか。


それは

明るい未来か

トンネルか。


国やメディアが

店員にパラソルを

直させているかどうかに

国民はいちいち気づき

本来であれば

懇切丁寧に

それぞれが言語化しなければ

ならない時代である。


そして

ソーシャルという文化の登場で

実はそれはできるような

お膳立てはできあがっている

のだが。


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