4年以上

毎日走り続け

さらに

最近大会にも

出場するようになって

さらに


“走ることは人生に似ている”


ということに


気づく。


日常のランニングで

外を走る時


やはり何気に

凸凹道や

水溜りや

上り下りの道は避け


平坦な場所を

瞬時に選び

走っている。


それはそうだ。


わざわざ

難しい道を

走る必要もない。


しかし

これが

大会ともなれば

凸凹道だろうが

水溜りだろうが

上りだろうが

下りだろうが

避けてなどいられない。


これが

いきなり

実社会と似ている。


個人的なことでは

楽な方へ避けることも

可能だが

社会と接するとなると

そうもいかない。


困難を

永遠に避けて歩き続けることは

なかなか難しい。


時には

茨の道もあるはず。


こちらの都合とは無関係に

歩まなければならない

決まりや規則やルールが

突如として登場し


それもクリアしながら

自分のゴールも

目指さなければならない


それが

マラソン大会であり

社会である。


しかし

マラソン大会も社会も

悪いことばかりでなく


そこに組み込まれ

大量な人とともに

同じ方向を向き

同時に走ることで


もしかしたら一人では

できなかったことを

可能にしてしまうという

側面もある。


一人黙々と25km走るよりも

大会で走ることの方が

個人の可能性を上げるように


社会で生きることで

不可能を可能にしていることもある

はずだ。


それもこれも


スタートがあり

ゴールがある時点で

マラソンと人生が似ているのは

当然と言えば当然

なのかもしれない。


先日の大会で

折り返し地点に

とんでもない山が

用意されていた。


マラソンコースとは

思えない急斜面の

上り坂をひたすら走って上る。


その辛い坂道を

上り切り少し下って

折り返し地点をターン。


僕より後ろを

走って来ている人達に

すれ違う時に

この先にどんな道が

待っているかを

僕は伝えることができる。


そして

先に折り返してくる人に

どんな道だったかを

聞くこともできる。


人生の折り返し地点

と言えば

今で言えば何となく

40代50代

なのかも知れない。


僕はまさに人生の

そこを走っている。


だから

折り返し地点で

一体何に気づくだろうかと

自分自身興味もある。


マラソン大会で

折り返し地点から

ゴールまでは

前半よりさらに手応えがある。


これもまた人生。


そして

ゴールをしたら

もう後ろから来ている人に

この先

どんな道が待ってるかも

伝えることはできない。


ゴールした人間は

もう折り返してこないから

先にゴールした人に

どんな感じだったかを

聞くこともできない。


人生で言えば

ゴールは寿命と言える。


だからこそ

自分より先に生きている

人間の言葉はとても重要

と言え


だからこそ


教育があるのだろう。


教育とは

先に生きて

先に折り返し地点を

通過して来た人間が

後から来る人間に

教え育むもの。


ゴールしたら

教えたくても教えらないし

教わりたくても

教わることはできないのだ


ということにも気づく。


また


スタートの合図が

鳴った時から

同じスタートとは言え

前後の差もあり

バラバラであり


だが

ゴールに向かうということなど

平等なものは

平等に与えられ


「あとはあなたの腕次第」


というところも

人生に似ている。


人生とは最大の暇つぶしである


スタートからゴールまで

どう時間を埋めるかという作業

こそが人生でもある。


だから貴重であり楽しくもある

のかもしれない。

さらに日本で言えば

資本主義民主主義という

ルールの中で

「全日本暇つぶし選手権」

という個人戦をやってる

みたいなもの。

どう自分と時間と質量の

折り合いと辻褄合わせをするか

みたいな部分も

多大にしてあるような気がする。


そして


大会を走っていると

いろんなランナーと

並走することがある。


「もしかしたら

この人とずっと同じペースで

ゴールまで近くかも」


とか思うのだが

持って3分。


知らぬ間に

その人は

後ろに行くか

前に行くか

とにかく視界から消える。


1000人以上が

出ている大会であろうと


そんな

同じ歩幅の人など

なかなか見付からない。


これは人生で言えば


結婚


なのではないだろうか。


60億人の人類がいようと

そう同じ歩幅の人など

見付からなくて当然なのだ。


だからこそ

同じ歩幅で並走できる

パートナーを見つけることは

貴いことなのかも知れない。


もしかしたら

マラソン大会中の

「この人同じ歩幅かも」

と思い消えていくのは

恋愛に例えられるのでは

ないだろうか。


また冷酷なようだが

マラソンは

後半で巻き返してやる!

ということがなかなかできない。


結局は

1km1kmのタイムを

どれだけ短くし続けて

結果としてタイムを上げていくしかない。


折り返し地点から

突然スパートをかけて

ごぼう抜きして

前半のタイムを

巻き返すというのは

実際は難しい。


1km1kmの積み重ねが

大切となってくる。


これは

人生で言えば

1日1日の積み重ねとも

似ている。


1日を笑う者は

1日に泣く。


今作った言葉。


また

大会に出ると痛い程

わかるのが


欲がでることで

惑わされること。


最初は完走が

プライオリティ

たったりするが


周りのランナーの

速いペースについ惑わされ


「俺もより早いタイムを」


とか


順位


とかへの欲が

出てくることがある。


いかに

平常心で

周りの勢いに

惑わされることなく

ただただフラットな気持ちで

前進できるかが勝負


なところも

人生に似ている

ような気がしてならない。


実際

大会では

ハイペースで飛ばした人が

折り返し前にリタイアしていく姿

を多く見かける。


僕が使用している時計は

GPSで1km通過する度に

バイブで知らせてくれる。


同時に

現在1km何分何秒のペースかを

表示してくれる。


ここがとても重要で


僕は

数キロ走る度に

この数字を確認する。


周りが

スピードを上げようと

下げようと

ただただ

淡々と

今回で言えば

2時間半という目標のための

ペースを上げもせず下げもせず

崩さず乱さず

自分のやり方走り方で

前に進む。


結果は

後からついて来ればいい。


しかも

別に

旗印は数字ではない。


なぜ走っているか。


それは

家族のための

健康のためでしかない。


気合いが入りすぎて

体を壊しては

本末転倒。


しかし

人間、欲が出る。


この欲と不惑との闘い。


これもまた人生

ではないだろうか。


おちまさと


走ること

特に大会に出て

気づくことが増えた。


大会に出ることで

日常のランニングでの

気づきが増えたということもある。


社会に出て

個人に気づく


ということに似ているかも

知れない。