今日のブログは

自戒の念も込めて書く。


今日のテーマは

『教育』とは何か。


その中でも

「子育て」ということに関する

そもそもの教育とは何か

である。


オアフと東京との

ある種のデュアルライフを

過ごしているからこそ

最近益々

強烈に気づくことかもしれないが


ベビーカーへの対応が

オアフと日本は

180度違う。


ここで

先に釘を刺しておくが

「だったら日本を出て行ったらいいのに」論

は全く通用しない。


僕は日本人なので

日本にいるし

日本が良き方向に変わることを望むのは

当たり前である。


話は戻って

オアフでは

例えばベビーカーを押して

エレベーターに入ろうとすれば

全員が笑顔で率先して

ドアを開けてくれる。


レディファースト

はもちろん

ベイビーファースト

が徹底的に根付いている。


それはまるで

寒ければカーディガンを羽織り

ワインのコルクを開ければ

ワイングラスにワインを注ぐように

とても自然で

当たり前の流れとしてである。


そこには気負いも

恩着せがましさもない。


一方

日本ではと言えば

逆に邪魔という視線と

ベビーカーを押しのけて

我先にエレベーターから出よう

とする行動ばかりを感じる。


もちろん

中には

本当に珍しく

開けてくれる人もいる。


しかし

それは極まれな現象である。


それも

新幹線ともなれば

さらなる勢いで押しのけられる。


ここで

なぜ冒頭に

自戒の念と書いたかと言えば


かつて僕も

その中の一人だったと思うからだ。


新幹線や飛行機などで

赤ちゃんが泣いていれば

正直

「今日は不運」

ということを

第一項目として挙げていた

と記憶している。


その理由には

新幹線の席の背もたれを

後ろに座っている子供に

ガンガン蹴られ続け

その隣に座っている親が

全く注意しない

などの経験が重なって

ということもあるが


正直

新幹線や飛行機で

赤ちゃんが泣いていれば

「どうにかしろよ」

と思っていたことも

否定できない。


これが娘が生まれてからというもの

真逆の大転換。


新幹線や飛行機で

赤ちゃんが泣いていれば


「大丈夫かな?」

「どこか痛いのかな?」

「僕に何かできることは

ないだろうか?」


などとつい考えて

心配してしまうようになったのだから

不思議なものである。笑


不思議とは言え

そこには理由がある。


経験だ。


娘が生まれ

子供を育てるという過程を

実体験する中で

子育ての大変さ

子供の笑顔の感動などを

自然と学んでいった

まさに経験が

その自己変革の源である。


日本は

少子高齢化が

あらゆる未来の問題を

飲み込んでいる。


娘の世代は大人になった時

一人あたり年金受給者を三人

背負わなければならない

計算である。


そんなことは

非現実的であり


本当に少子化対策は

抜本的に改革しなければ

日本の明日はない。


では

僕にとって

大変革が起きた経験とは

一体何なのだろうか。


それは

その経験こそが

自らの


『教育』


となったということである。


少子化対策における

抜本的改革は何かと言えば


僕は

子育てという事自体の

「教育」ではないかという

気がしている。


僕らは

子育てについて

一切細かな

教育を受けていない。


だから

実体験により

自ら自分に初めて

教育するようなものなので


今まで

ベビーカーの存在に

気づきもせずにいたとしても

自分が子育てをするようになった

瞬間に初めて

その大変さに気づき


「不運」


と思っていた

泣き声に対しても


「大丈夫かな?」


にまで変わることが

できたのではないだろうか。


それを

誰もが

もっとベイビーファーストになって欲しい

と強く思ったところで

何も変わらない。


変えるとしたならば


『教育』しかない

のではないだろうか。


オアフを始め欧米で

子育てに対する教育が

どう行われてるかは

知らない。


しかし

あの呼吸するように

根付いている

ベイビーファーストは

国民性というだけでは

語れない気がする。


それも毎回聞こうとしながら

つい聞いてないので

未だ知らないが


オアフなどでは

どのレストランに行っても

ハイチェアがある。


日本のレストランで

ハイチェアがあることは

相当珍しい。


赤ちゃんということで

イスに座布団がしいてあるのを

出されたりする。


普通にじっと座っていると

思っているからだ。


それぐらい

子育てに関する知識はまるでない。


ただそういう僕も

ハイチェアなどと

当たり前のように書いているが

子供の椅子が

ハイチェアということさえ

知らなかった。


そして

どこに行っても

当たり前のように

ベビーカーの昇降が苦労しない

バリアフリーのスロープが

必ずある。


このハイチェアとスロープが

どんな場所にも絶対的にある

ところを見ていて

こちらも勘だが


もしかして法律があるのか


という気がしてしまっている。


聞いた話では

アメリカでは

12歳までは

法律で子供の一人での留守番は

禁じられているなど

法で子供を守ろうとしている。


ベイビーファーストまで

法で指導するのも

いかがなものか

とは思えど


日本のあまりに

子育てへのぞんざいな扱いを

体感していると

それもありか

とさえ思ってしまう。


レストランにおける

ハイチェアとスロープの義務は

法的設備もありかもしれない。


しかし

本当のことを言えば

そんな法で縛るではなく

まずは


「子育て」という概念に対する

『教育』


ではないだろうか。


なぜ

子育てに関するいろは

からの教育を

義務教育でしないのであろうか。


僕は

『企画の教科書』

『初対面の教科書』

『時間の教科書』

という本をNHK出版から

出している。


なぜこれらを作ったかと言えば

社会に出れば

それぞれ本当に必要なこと

にも拘らず

教育でなかったからだ。


その教科書もない。


ならば作ってしまえ

と作ったものだ。


『子育て』


も教育も教科書もない。


最もなければならないはずが

何もない。


これだけ

必要かつ重要なことにも

拘らず。


子育てと言っても

自分の子育てというよりも


『世の中における

子育てへの視点の教育』


とでも言った方が

いいだろうか。


もしかしたら

今もコミュニティが

しっかりしている

地方の町や村では

お互いの子育てに対して

尊重しあっているかもしれない。


しかし

多分

一極集中が起きれば起きるほど

都心部での他人の子育てに対する

姿勢は時代を経て

冷たくなる一方のような気がする。


それは結果

少子化をさらに招き

結果数十年後

自分たちの首を絞めかねない

のではないだろうかとさえ

思ってしまう。


ベビーカーを押していて

究極に不安の角度が上がるのが


エレベーターや

駅のホームなど


人混みと扉の時間が

制約される場所である。


どう考えても

何かのチャレンジでもないのに

ベビーカーを押して

制限時間の中

優先される訳でもなく

クリアするのは

かなり至難の業である。


そんなこと言ったら

戦争中や後進国の子育ては

どうやってると思ってるのか

と言う問題とは

論点が違う。


今や日本は

先進国の中で

先日ムーディーズにより

長期国債の価値は最下位に

なってしまった。


そんな中

他の先進国と最も違うのは

ベイビーファーストの精神であり

それこそが

リアルな少子化対策への道となり

それは

未来の日本を立て直す術

にもなるのではないだろうか

と考えるからである。


本来は

そんな経済や

まどろっこしいことはさておき

ベイビーファーストは

目の前の人がハンカチを落とせば拾う

ぐらい普通のこととして

行われることかもしれないが


今から日本が

変わるならば

風が吹けば桶屋が儲かる

的なことも話さなければ

何も変わらないような気がする。


その

すり替えも

僕はひとつの


『教育』


だと思っている。


おちまさと


エレベーターを

率先して開けてくれることに慣れると

一体何が起きるか。


それは


自然とこっちも

相手が誰だろうと

開けておいてあげようと

体が動き始め


その一連の行動は


連鎖する。


人間は

必ず連鎖する

と思っている。


その為には

すり替え的なことも含めた

他人の子育てに対する

『教育』とは何か

を一から見直す時代に

日本は突入しているような

気がする。


今日

娘は苦手だったトマトを

食べることができた。


他のものを食べる

一連の流れの中で

小さな小指大のトマトを

口に入れたら

モグモグ食べた。


その後

半分に切られた

プチトマトを口に入れたら

それも食べた。


とても

嬉しい出来事だ。


僕は

かつて

パクチーが苦手だった。


しかし

ある日

脳の中で

カチッという音がして

真逆に大好物へと転換した。


パソコンも

全くわからなかったが

ある日運転中

脳の中で

カチッという音がして

全ての謎が解けた。


人間そういう瞬間があるはずだ。


今日娘は

プチッという

小さなトマトの触感が

苦手意識の解放へと

繋がったのではないだろうか。


今の日本には

子育てに関することを

ある日このような

カチッやプチッになるべく


小さなプチトマトから

徐々に大きなプチトマトに

進化させるぐらいの

根気のいることが

必要なのではないだろうか。


そう簡単に一言で

少子化対策は

声高に連呼するだけでは

何も進まないし

明日解決する問題ではない。


全ては

地に足のついた

リアルな日進月歩の

プロデュースが必要となる。


教育と法整備。


どちらも

国会議員がやる仕事である。


やって。