海外に住んでいる

日本人とたくさんお会いしていると


二つのパターンに分かれる。


一つは


「住んでみてわかったけど

ここは来る場所で住む場所じゃない。

なぜなら時々来るからいい訳で

ずっといたら飽きる」


というタイプと


もう一つは


「住んでみてわかったけど

ここは本当に住んで最高。

毎日同じ場所を歩いても

つい写真に撮りたくなる。

同じ場所でも同じ景色も

同じ太陽もないわけだから」


とうタイプである。


この二つに

いったい何の違いがあるかと言えば


それは


『感受性』


という言葉ではなかろうか。


逆に言えば前者のタイプは

もしかしたら

どこに住んでも同じこと言い


後者のタイプは

どこに住んでも

日々瞬間々々

新たなものに気付きと発見を

産むことができる。


僕の東京の家からは

東京タワーが見えるのだが

よく東京タワーが見える家に

住んでいる人でも

「3日でその景色も当たり前になる」

とかいうタイプがいるが

果たしてそうだろうか。


僕は毎日東京タワーの

新たなことに気付く。


「あんなライトあったっけ?」

「あの土台の足あそこにあったんだ」

「節電中は不気味な鉄骨に見えるな」


など周りの環境や天気や

明かりや自然現象により

一秒一秒全く違う

東京タワーに新たな発見をする。

同じ東京タワーなど一日もない。


感受性とは辞書で引けば

外界の刺激や印象を

感じ取ることができる働き。


例えば

転職や引っ越しをしても

なぜかどこかリセットもされないし

何も変わらないという人も多いと聞く。


例えば

そういう場合の自分プロデュースとして


『感受性』


を自主的に鍛えてみるという

選択肢はないだろうか。


ハワイをはじめ

最高の環境の中でも


「すぐ全部慣れてしまう」


と言い切るタイプは

ものごとをまずネガティブに

見てしまうことが多いのではないか。


まずポジティブに見なければ

感受性は強化されないような

気がする。


雨が降る。


濡れる。


いやだなぁ。


よりも


雨が降る。


気持ちいい。


すぐ乾くだろう。


からの発想の方が

例えその先に待っている

答えが同じだったとしても


そこまでの道程で

感受性は鍛えられているのでは

ないだろうか。


(日本の場合

放射性物質を含む雨

と言う別の問題はあるが。)


感受性は


『気付きのラジオ』


みたいなもので

人と同じものを見ていても


人とは違う視点からの周波数


をチューニングして

「あれはなんだろう?」

という気付きの連鎖を産んでいく

とっておきの

オリジナルアンテナなのである。


しかも

それも脳の中にあるので

常に携帯可能。


世界中

どこにでも持ってい行ける。


国や場所が変われば

機種や仕組みが違うから

使えないということもない。


どこで

使用しようが

スイッチを入れようが

誰に注意されることもない。


感受性は

身を助ける場合もある。


もしも

自分の意志とは違うが

ある世界の場所に

住まなければならないとする。


それが世界の人が

羨む場所だったとしても

感受性がない人にとっては

日々の発見がないので

3日でわかったような感じがして

それ以降は辛いという思いしか

なくなってしまうだろう。


もっとわかりやすく言えば

毎日同じ満員電車に揺られ

毎日同じオフィスに押し流され

毎日同じ絵の中で生きているとしても


その中で

感受性さえあれば

電車の窓から見える景色や

中吊りや乗客の中から

新たな発見をし続けていくだろう。


逆に言えば

感受性さえあれば

どんな場所でも環境でも

何かに


「気付き」


何かを


「発見」


し続けていく。


この『気付き』と『発見』


これこそ

これから何が起こるか

誰にもわからない未来に

まずは必要不可欠な

ものではないだろうか。


僕は

今を生き抜くには

感受性こそ最も必要である


『感受性最強説』


を大げさに唱えてみる。


日本や世界の再編成

などと言っても

この感受性がなければ

何も進まない。


そんなハワイで気付いたことを

じめじめした東京で

考えている。


おちまさと


外から見る日本は

さらに不気味さを増している。


今後30年に

必ず大きな地震が来ると

言われ


セシウムが牛から検出され


雨に濡れながら歩けなかったり


土遊びができなかったり


思い切り深呼吸ができなかったり


窓を開けるにも躊躇したり


1ドルが80円をひた走り

ついには79円台に入り

数日が続いたり


国民も

仲間も敵も

全員が辞任を求めても

リーダー本人だけがやる気満々で

辞めなかったり

異常な日常に包まれている

にも拘らず


気にもしていないのか


我関せずなのか


考えてもしょうがないなのか


見て見ぬふりというのとも違う


何を考えているのかわからない。


だから不気味という表現しかない。


そこには感受性という回路は

切断されてしまっているのか。


感受性がなくなれば

人は結果として


つるむ


群れる


右に倣えになる。


感受性がなければ

わからないとなる。


わからなければ

わからない同士で

つるむむれる。


わからなくていいんだ


ということになる。


相当やばいと思う。


とにかく

今は感受性ジムで

強靭な気付きと発見力をつけて

勝手にやるしかない。