2011年3月11日

14時46分。


日本は

もう一つの世界の扉を

開けたのではないか。


その扉とは


『価値観の扉』


である。


あの時

あのたった数分間を境に

それぞれが

あの地震を体験した場所で

それぞれの

『漂流教室』へと

迷い込み

そこから

それぞれの

新たな価値観の世界に

生き始めている気がする。


僕は

あの時いた

首都高脇六本木通りの

渋谷駅南口直前の

渋谷署近くの信号から

時間や時空が歪み

もう一つの別の世界に

足を踏み入れているような

気がしてしまう時がある。


一人車を運転していたからも

あるのかもしれないが

あの地点を境に

そんな気がしてしまう。


大きな揺れを感じた時

「いつもの地震とは何か違う」

「これが子供の頃から

30年以上言われ続けて来た

”東海大地震”というものか」

と漠然と感じながら

ずっと妻と娘の事を考えていた。


僕は揺れがおさまった後

あるファッションブランドの会社で

打ち合わせだったので

一方で

「約束の3時に間に合うかな」

と運転し3時に到着した。


しかし

その会社が入るビルからは

全員が外に避難していたのだが

これは車で地震を体験したから

建物内の揺れを

わかっていないからか

それともワーカホリックか

というよりも

何か今起きた地震が大地震だとは

信じたくない気持ちが大きかったか

その人たちを掻き分け

荷物を持ち

そのブランドオフィスに上がった。


しかし

その会社の方々から

「危険だから外に」

と促され

たまたまその日は

荷物が多く

その会社の方々が

僕の両手のバッグを持って

外に一緒に

連れて行ってくれたのだ。


ただその日もう一つ

僕は自分がプロデュースした

キティちゃんの大きなスピーカーを

プレゼントしようと持っていたので

なぜかキティちゃんを

大事そうに一つ抱え出て来た男

となりすでにビルの外に

退避している方々の前に

現われることとなった。


話はそれたが

あの首都高脇の

六本木通りの渋谷署前信号から

今日まで

嘘の様な世界と時間を

歩いて生きている。


もしももう一つ

あの地震が起きない世界が

あの渋谷駅南口のガード下から

先にあったとしたらと

この数日考えている。


そこには

まるで違う

破綻して行く経済ぐらいを

心配してはいるものの

基本は楽観的にLOVE注入

している世界があるはずだ。


報道も思い出せば

人気歌舞伎役者を中心とした

暴力事件に

多くの人間と

多くの尺(放送時間)を割き

連続ドラマのように

展開していたではないか。


それも

メディアに見識者が


「そこまでずっと

取り上げる必要があるか」


と言えば

メディア側は


「我々は視聴者が望むから

作るだけだ」


という主張を繰り返していた。


この震災の中

あの裁判は

東京地裁で判決が下った。


もちろん

この大地震の中

他のニュースはあまり

やる必要はないと思う。


しかし

あれだけ

”視聴者が望んでいる”と

時間と労力を割いた

情熱の連ドラの最終回を

メディアはやらないのか。


では一体

あの狂想曲は何だったのか。


そんな中

もう一つの

メディア狂乱の連ドラも

最終回をやらずに

ひっそりと幕を閉じた。


グラビアアイドルの

二度目の覚せい剤疑惑事件。


それも

多くの見識者や視聴者が

ネットなどで

「そんなに報道する必要あるのか」

と書いてみても

「視聴者が望むからやる」

という同じ展開。


海外へ追い掛け

仕舞には


飛行機の中から

電話でそのグラビアアイドルが

靴を脱いだ

食事をした

という一挙手一投足を

ニュース番組で生放送。


あの記者は根性がある

と絶賛しているメディアもあった。


ラストは

空港をランウェイと化した

『成田ガールズコレクション』


それでも

放送されれば

こうして誰もが一瞬は

観てしまう。


観てしまえば

視聴率しか定規がない

テレビは数字に繋がる。


だから

数字=視聴者の気持ち

というからくりで


「だって視聴者が望んでるから」


となる。


その報道が労力と尺をかけた

情熱の連ドラも

この震災中にひっそりと

最終回の幕を閉じている。


証拠不十分。

起訴せず。

保釈。


確か視聴者が望んでいたから

機内に他のお客さんがいようと

飛行機からも生実況したのでは

ないか。


しかし

あれだけの10話までの

報道の情熱は11話の最終回を

報道できないことに

悔しささえ感じていないように見える。


なぜなら

多分言い分は


「だって今は地震の方が

”視聴者が望んでいるから”」


その理論が

あの地震発生時の


繰り返し流れる

まるで


悲惨映像グランプリ


のようなまるで現実感のない

ヴァーチャル報道。


ツイッターでは早くから


「もっと炊き出しの場所や

避難所など現場の情報を」


と悲鳴のように

被災地からツイートされて

いたにも関わらず。


大体CMなしにしたにも関わらず

なぜ視聴率計測をやめなかったのか。


あの時

総務省かどこが管轄か知らんが


震災が終わるまで視聴率撤廃


と言えば

各局もっと地に足ついた報道を

したはずなのではないだろうか。


あの時

全局が視聴率を一切忘れて

報道、放送していたかと言えば

多分嘘になる。


まだ他にもある。


あの狂乱の3夜連続ドラマ

『京都大学携帯電話カンニング事件』

はどうなった。


異様なまでの

マスメディアの過熱で

19歳の受験生を逮捕までして


あの報道だって


視聴者が望むから


なのだろう。


だったら

しっかり最終回まで

お送りする

それこそ使命が

報道にはあるのではないか。


カンニングを容認している訳ではない。

それは前にもブログで書いた


しかし

あの報道などは

彼の人生につかなくてもいい量の

影を落とすことになったのでは

ないだろうか。


さらに

僕の中では

それこそ

僕と言う視聴者が

望むニュース


『赤ちゃん予防接種同時接種問題』


こちらは

当時からブログでも書いたし

ネット内では

「視聴者が望んでいた」

のだが

あまり見ない。


6人の赤ちゃんが亡くなった。


結局

厚生省は

「因果関係はわからない」とし

「しかし一時中断」

という曖昧な話で


震災以後

その後

影響が出た赤ちゃんがいるか

など聴こえて来ない。


望んだって

出て来ない時は

大人の理由か出て来ない。


これが

もしもあの地震がなかったら

という元の世界と比較した時の

今の世界である。


あの14時46分。


とても不幸なきっかけで

目の前に新たな世界のドアが

ばっくりと開いてしまった。


我々は

そこにもの凄い大きな犠牲を

伴いながら漂流し

それぞれの大地を踏みしめながら

現実と戦っている。


そこには

もしかしたら

あのまま

渋谷駅南口のガードを

くぐっても

まだあの以前の

経済の心配ぐらいでよかった

あの平和という言葉さえも

曖昧になり始めていた世界の


価値観


をもしかしたら

この多くの犠牲を払いながら

残された人間は


変革


していく

きっかけにしなければ

本当のこの多くの犠牲に

顔向けできないのでは

ないだろうか。


その先導をするはずの

メディアが


『価値観据え置き』


ならば

この国は滅びるのでは

ないだろうか。


今週の『AERA』の表紙は何だ。


そんな恐怖を煽ってまで

数字か。


「数字を旗印にするものは滅びる」


前にブログで書いた


この期に及んで

数字を旗印にするのは

休戦した方がいいのではないか。


旗印には


理念や想い


が書かれていなければ

ならないのではないか。


そこに

数字と金がついていくる。


中には空気が読めてない

「どこから目線だ?」という

無責任なコラムもあった。


価値観革命をして

日本は生まれ変わるしか

生き残る方法はない


気がする。


それしか

今回の犠牲を昇華させる

方法は残されていないのでは

ないだろうか。


おちまさと


あれから

僕は車で

同じ首都高脇の

六本木通りを車で走り

あの時と同じ場所を通過した。


渋谷のガードをくぐりぬけても

以前の世界はなく

そして

あの地震も嘘のように

日常を取り戻していた。


だとしたら

価値観の改革

を政府やメディアなど

大きなところがしなければ

新世界は広がらない。


また

同じ繰り返しでは

この多くの犠牲が

犠牲になってしまう。


少なからず

個人個人の


『死生観』


は変わったはずだ。


その新価値観は

ツイッターや

こうしてブログで

繋がっていく。


個人的には。


ただし

日本の巨象たちが

どうやって変われるかが

問題である。


その為には

旗印に理念を。