ヨハン·ヨアヒム·クリストフ·ボーデ | 赤城山の懐で暮らす【おち】

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メモ(名無し先生のコメントを抜粋)


・ヨハン·ヨアヒム·クリストフ·ボーデ(Lilio Convallium) - Illuminatus、1782 

『ファウスト』で有名な『ゲーテ』の、フリーメーソン参入儀式の立会人こそ、このヨハン·ヨアヒム·クリストフ·ボーデである。 
当時ドイツでは、フリーメーソンはフライマウレライと呼ばれていた。 
その亜流として誕生したのが、イルミナティー(Illuminatenorden)啓明結社と、Strikte Observanz厳格戒律派である。 
まず始めにStrikte Observanzが発生し、その後、発生したイルミナティーが、 
後に空中分解するStrikte Observanzの受け皿となる形で発展した。 
この二つの秘密結社に深く関わり、その秘密結社を社会改革運動の発信基地として発展させようと努め、 
なおかつ、その理念を、主にヴァイマールを中心とした文人、政治家に伝えた 
18世紀ドイツフライマウレライ解明のキーマンこそ、ヨハン·ヨアヒム·クリストフ·ボーデである。 

ボーデは1730年1月12日に日雇い兵士の息子としてブラウンシュヴァイクのバルム(Barum)で生まれた。 
この貧しい生い立ちが社会改革を目指す精神を培う原点になっていると思 
われる。 
お世辞にも良いとは言えない彼の教育環境にあって、彼に初めて文化的薫陶の機会を与えたのは母親であった。 
彼女は我が子に音楽的才能を認め、1745年、彼が14歳の時から音楽教育を受けさせ、 
1750年には彼はブラウンシュヴァイクの音楽隊のオーボエ奏者になる。ちょうどこの時期より、 
学究的な世界にも興味を示し始め、フランス語と英語を学び始める。これが彼を後に有名な翻訳家にする下地となるのである。 
1757年にブラウンシュヴァイクからハンブルクに移ってからは、新聞の編集や翻訳の仕事を始めた。 
1766年には彼の手元に残された妻の遺産を元手に出版社兼印刷業も平行して営み始める。 
ゲーテの„Götz von Berlihingenmit der eisernen Hand“はボーデの元から出版された。 

このような表の顔に対する裏の顔を彼は持っていた。 
それはフライマウラーとしての顔であり、それこそ彼の真骨頂であった。 
1737年にドイツのハンブルクに初めて設立された、イギリス大ロッジ公認のAbsalom zu den drei Nesselnに、1761年に入会する。 
短い期間でマイスターの位にまで達し、Absalomロッジの秘書となった。 
ハンブルクにStrikte Observanzを導入したのは彼であった。 
1766年、彼はAbsalomロッジ全体の総代理人として働いていて、 
この役職でInnerenorden(Strikte Observanzの幹部組織)と従来の伝統的なロッジ双方の会計主任を務めていた。 
また、フライマウラーの警察庁の長として、結社内部の秩序維持も受け持っていた。 
この業績ゆえクニッゲ男爵は、彼に、後に厳格戒律派執事という名誉階級を授与した。 
このクニッゲ男爵こそが、ヘッセンがStrikte Observanz、イルミナティーを我が物にする為の使者。 
金融面のロスチャイルドと並ぶ片腕であった。
そして、この地位がボーデに当時のStrikte Observanzを中心としてドイツ・フライマウレライの全容を見渡せるポジションを与えた。 

1776年クニッゲ男爵とボーデが一緒にヴァイマールを訪れていた。(イルミナティーが設立された年である。) 
1776年にカール・アウグスト公は、ゲーテの提案でクニッゲ男爵を自分の侍従にしている。
1778年ボーデは、ベルンシュトフ伯爵というデンマークの大臣の未亡人の首脳陣として付き従う形でにヴァイマールに引っ越すことになる。 
ヴァイマールの宮廷内にフライマウレライを導入した中心人物フリッチュ大臣は、ボーデによりStrikte Observanzを導入した。 
Strikte Observanzは18世紀ドイツにおけるフライマウレライで支配的地位を獲得していた流派である。 
オーバーラウジッツ出身のフント男爵によって1743年にその原形が作られ1751年以降拡大されていくが、 
この結社を設立したフント男爵の真の目的は、自分達の国土で自分達の民主主義を打ち立てる憲法によって、独立した貴族国家を実現することだった。 
フント男爵はそれをテンプル騎士団説とフライマウラーを結びつけることに求めた。 
従来のフライマウレライの位階制度である、徒弟・職人・親方という身分の上に、さらに修正スコットランド儀礼と称する上位階制度を置いた。 
そして自分達が上位階につくことで、貴族が職人達の徒弟制度であるフライマウレライ的徒弟制度を支配する形式を作った。 
つまり、外見上は貴族主導型のフライマウレライにしたわけである。 
ドイツでもテンプル騎士団にまつわる伝説と、スコットランドに対する憧憬の念が、一般に広がっていたし、 
知られざる上位者(陰のボス)がそこには存在しているという、実にロマンティックな概念が人々の空想的好奇心を刺激した。 
そして、Strikte Observanzはドイツで最も巨大で重要な高位階組織となっていく。 
1776年フントは死去しシュタルクが取って代わる。 
シュタルクは、ルター派の牧師の息子であり、表向きはプロテスタントに所属しているように振舞っていたが、 
実はカトリック教徒であり、その上Strikte Observanzを解体するためにイエズス会から派遣された者だった。 
彼は、儀礼の内容を全てカトリック化し、Strikte Observanzが本来の目的とする 
民主主義に基づく貴族社会の確立などは、全く望めない組織にしてしまったのである。 
フント男爵の後を継いだのはブラウンシュヴァイク公フェルディナントだったが、 
彼ももはやドイツのフライマウレライの連合を維持しつづける力は持っていなかった。 
このことをボーデもクニッゲ男爵もよくわかっており、Strikte Observanzの組織をイルミナティーに接木する計画を進めていた。 
そして1782年ヴィルヘルムスバートの大会で、結社ナンバー2に昇進したヘッセン・カッセル方伯カールの抗議により、 
ヴァイマールがStrikte Observanzロッジの中心となる事は阻止されてしまったのである。 
そのような中、イルミナティーはクニッゲ男爵とボーデによる広報活動によって1780年以降、帝国全土の領域に広がりつつあった。 
即ちヴィルヘルムスバートの大会以前に下準備がなされていたのである。 
そのようなわけで1782年にはヴァイマールのフライマウラーの兄弟達は非公開の形でイルミナティーの集会に集うことになった。 
その中には重要人物が多くいたのである。 
ゲーテ、カール・アウグスト公、ヘルダー、ムゼウス、カール・アウグスト・ベッティガー、医師フーフェラント、彫刻家クラウアー、 
ヴィーラントの息子、ボーデとすぐに親友となることになるイエナの哲学者カー 
ル・レオンハルト・ラインホルト、 
さらにStrikte Observanzのフライマウラーであるフリッチュ、マーシャル、シャルト 
並びに政府の政治的重要人物であるクリスチャン・ゴットリープ・フォイクトが挙げられる。
当時ヴァイマールのイルミナティーを束ねていたのは、当然のことながらボーデであった。 
1784年、イオニア管区長に就任している。イオニアとは、ベルリンとブランデンブルクを含むオーバーザクセンのことである。 
ボーデはヴァイマールでも管区長であり上司であり、本来的推進力となっていた。 

イルミナティーのさまざまな活動の拠点は隣接したゴータ、ゴータのエルンスト公は組織の後援者であり、 
組織の創立者であるヴァイスハウプトを匿っていた。ヴァイスハウプトはヴァイマールに呼ばれることはなかった。 
ゴータの有名な結社員としては、一般民衆の啓蒙主義者であるルドルフ・ツァハ 
リアス・ベッカー、 
シュールポルタンの長であるヨハン・ゴットフリート・ガイスラー、ゴータのエルンスト公の親友であるクリスチャン・ゲオルク・フォン・ヘルモールト、 
後にミュンヘンアカデミーの秘書となり„Nekrologs der Deutschen“の著者となるアドルフ・シュリヒテグロールがいる。 
ワイマールとゴータ以外での結社員としては、ベルリンのフリードリヒ・ニコライ、ビースター、 
マインツの選帝侯の助手で神聖ローマ帝国の代理宰相であるエアフルトのカール・テオドール・フォン・ダールベルク、 
ハンブルクの上院議員で当地のジャコバンクラブの創設者となるゲオルク・ハインリヒ・ジーフェキング、有名な俳優で歴史家であり、 
19世紀初頭のフライマウレライの改革者となったフリードリヒ・ルートヴィヒ・シュレーダーなどがいる。