突然ですがコロナに感染です!!
新型コロナとかもう意識から外れて、眼中に無いって感じでしたので、だいぶ油断していました!!と、言うか、元々無防備ではありましたが。
愛宕山に登ったこの日、平地では30℃近くまで気温が上がり暑くなりましたが、水尾別れの休憩所では18℃ほどと過ごし易い気温で、とても気持ちが良い感じでした。
しかし、愛妻は、朝からペースが全然上がらず、止まって休憩していると寒いと行うので、先に出発し、私は珈琲をゆっくり飲んで、後から追うかたちにしました。
毎週水曜日に、愛妻は体操教室に通っていますが、この週は、その内の一人がコロナに感染していたと、その後日に連絡がありました。
水曜日の体操教室で、その時は何ともなくて、翌日の木曜日に具合が悪くなり、診てもらった結果、コロナだったと言うことでした。
コロナは、発症前日が一番感染力が強いそうで、しかも、その日、その人とメッチャお話をしたそうなんです。
そして、愛妻も日曜日には急激に具合が悪くなり、月曜日に近所の行きつけの先生に診てもらったところ、案の定、コロナに感染していました。
そんなこともあって、愛宕山に登った土曜日はイマイチ調子が上がらなかったみたいです。
さらに、一番感染力の強い発症前日となるその土曜日、ずっと一緒でしたが、特に行き帰り、閉鎖空間の車内で過ごしたのが効いたのか、今まで一度も掛からなかった私もとうとう感染してしまいました。
まあ、公共交通機関を利用していないし、行こうと言っていたカフェにも寄らず、真っ直ぐ帰ったこともあり、他の人には感染(うつ)していないと思うので、まだ良かったと思います。
今更ですが、コロナ初感染です。
ただ、私は免疫力のおかげなのか?それとも、予防ワクチンのおかげなのでしょうか?
愛妻は、熱もかなり上がり、喉が今までに経験ないくらい異常に痛いと言っていますが、私は、それほど酷い状況にはなりませんでした。
とは言え、とても身体が怠くて、ここ二日ほどは、気が付くと横になって寝ていると言う状況です。
そして、え~っ?こんなところにって感じでちょうどクリンソウが咲いていました。
道の先に何か建物があります。
その建物の横には、さらにたくさんのクリンソウが咲いています。
良く見ると、何かいます。
白い紋のあるアゲハ、モンキアゲハの雌の様です。
この白い紋が段々と黄色みを帯びて来るので、モンキアゲハ(紋黄揚羽)と言うそうですね。
私の息が切れていますけど、一瞬ですが、ひらひらと舞います。
そして、先ほどの建物は、ハナ売り場跡でした。
ハナと言ってもシキミのことなんですね。
愛宕のさんの火伏の神花樒(しんかしきみ)の売り場だったそうです。
『水尾の女性が樒を背負って愛宕神社まで登り、神前に供えてから販売をしていたそうです。
毎日、この樒の葉を一枚ずつ、オクドさん(竈=かまど)にくべると火事にならないと言われ、竈が無くなった今でも多くの人が買い求める姿を見ることができる。』そうで、今は、愛宕神社さんの中で受け継がれていました。
登るに連れ、看板の番号も段々と40に近付いて来ますね。
このもう一枚下の写真に、今度は、小動物の写真が出て来ますので、苦手な方は、また、サ~ッ!と飛ばして下さいね。
階段より、左の道の方が登り易そうだったので、左を登ります。
すると、モグラがご臨終していました。
いつだったか、常念岳に向かう朝に見て以来でした。
35の、こちらの看板の文言を頭の片隅に置いといて下さい。
石段を登ります。
ここに来て、ようやく丁石のスタート地点が分かりました。
愛宕神社の一の鳥居があるのは、江戸後期には既に愛宕参詣の際の団子「志んこ」を名物とする茶屋として知られた平野屋というお店のところなんですね。
この急坂の横は広くなっており、表示はありませんでしたが、何か建物があったみたいですね。
35の看板を受けての36の看板 ありゃ、ゴミ子さんには、ゴミ箱男ってパートナーがいてはったんですね。
まあ、ゴミは、ちゃんと家まで持ち帰りましょう。
あと4つ・・・頑張りましょう。
マムシグサも咲いていました。
タニギキョウ こちらにもたくさん咲いていました。
中年って、結構、ピンポイントで攻めて来ますね。
標高を上げると、ヤマツツジが咲いていました。
門が見えて来ました。
立派な杉の木も見られますね。
門をくぐろうと思うと・・・
すぐ右横に39の看板、しかし、意図するところが、ちょっと分かり難い・・・
そして、黒門です。
神仏習合時代の名残でしょうか?白雲寺の京都側の惣門、京口惣門とも呼ばれたそうです。
ここから当時の寺の境内に入ることとなり、中には宿坊も六つ立ち並んでいました。
神仏分離令により、白雲寺が破却となったのは、慶応四年、1868年のことだったんですね。
黒門をくぐるところです。
太陽の光がスマホに入って、ちょっとサイケデリックな感じになりました。
黒門をくぐり少し上がってから見下ろしたところです。
こちらも新緑が綺麗でした。
ついに40番目の看板がありました。
神社まではあと300mだそうですが、ここで気を抜いてはいけません。
良く見ると、この杉の木、倒れた時にきっと電線をぶち切っているハズです。
きっと、切れた後に、また、復旧していますよね。
トリカブトがわんさか繁っていました。
きっと当時のままの石段ですね。
ここで、普通は40分の40で終わりだと思いますが、油断させておいて、何と・・・41番目の看板がありました。
完全にやられました。
昔懐かしい仮分数(かぶんすう)ですね。
小学校では過分数って習った様な気がしましたが、仮分数です。
色々な意味で、頭でっかちの人のことを仮分数なんて呼んでいませんでしたか?
ここで、仮分数である40分の41を帯分数(たいぶんすう)に直せば、1か40分の1ですね。
あ〜昭和40年代以降は、指導要項の改訂により1と40分の1と言うんですよね。
因みに、我々世代が習った〈か〉は、個→箇らしい。
ところで、この看板の『火迺要慎』は何と読むでしょう?
答えは、火すなわち慎みを要すると言う意味で、『ひのようじん』と読むそうです。
愛宕神社さんで頂ける火伏せ(防火)の御札は、この字なんですね。
ここには鳥居でもあったのでしょうか?
良い天気、そしてとても気持ちが良いです。
やっぱり家庭菜園の野菜にしか見えませんが・・・
この辺りにもクリンソウがちょうど咲いていました。
ヤマツツジ ちょうど綺麗、鮮やかに咲いていますね~♪
歴史有る神社の参道と言う感じが益々して来ました。
愛宕太郎坊は、愛宕山の天狗 猪に乗り、錫杖をもって現れるらしい・・・
いよいよ愛宕神社さんへ・・・
いや、思ったより石段が続きます。
灯籠の台座もなかなか凝っていますね。
何だか讃岐(香川県)の金比羅さんが思い出されます。
ハコベの仲間が咲いていました。
一礼して鳥居をくぐります。
イノシシ・・・銅を被せてあるんでしょうが、基本は鉄の鳥居だそうです。
囲って、祀ってありました。
すみませんが、何なんでしょうね?良く分かりませんでした。
山門をくぐります。
ありゃ!いよいよかと思ったら、再び石段が現れました。
考えていた以上に長い石段を登りますね~!!
金剛山みたいに回数登山もしているんですね。
いよいよ今度こそは愛宕神社さんみたいです。
宮司さんでしょうか?
神社の方が参詣者の記念写真を撮って差し上げているみたいです。
後で、愛宕神社さんのツイッターや、インスタを見ると、その日にお参りに来た方の写真も時々上げていました。
神が宿る感じがしますね~♪
後由緒に依りますと、『その創祀年代は古く「愛宕山神道縁起」や「山城名勝志」白雲寺縁起によると大宝年間(701~704)に、修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立しました。』とあります。
やはり役行者が関わっていますね。
そして、私の個人的に好きなお山、白山の開祖をした泰澄が神廟を建立したと言うことです。
詳しくはこちらです。↓
特に撮影禁止の表示は見当たらないみたいですが、通常は、本殿などの撮影は望ましくないのでこれ以上の撮影は止めときます。
また、ホームページなどを見ても、境内の案内も見受けられないので、詳しく説明するのは止めときますが、この突き当たりが御本殿です。
こちらには、火伏せの神様とともに、悪行や煩悩を切るとされる勝軍地蔵菩薩が御祭神として祀られており、戦勝、勝運のご利益もあるとされています。
御本殿の前を左に入って、その先で右に折れると、火の神、若宮社や、縁結びの神、奥宮社もあります。
こちらも、とても素敵ですので、ぜひ愛宕山に登って、愛宕神社さんを奥の奥までお参りしてみて下さい。
なお山頂は神域と言うことで入れません。
代わりに三角点は数百m離れた別なところにあります。
愛宕山のヤマスタは、愛宕神社さんで取れました。
入って左に、御札や御守、御朱印などを頂ける社務所があります。
その脇に、先ほどの旧ハナ売り場で扱っていたのと同じ様な樒があり、結構手に取っている方が見受けられました。
お参りの後で、御朱印を頂きます。
通常五種類、それと別に、新年三ヶ日と千日祭、月次祭(毎月23日)には限定の金亥御朱印が頂けるそうです。
こちらは、本社の御朱印 こちらだけ直書きで500円です。
こちらは、気になっていた明智光秀公の御朱印です。
大河ドラマ 麒麟がくるが放送されたり、その後も明智光秀に関連する特集などもあり、少し明智光秀に対する見方が変わる機会になったのではないでしょうか?
そんな訳で、一つ前の私のブログに出て来た『織田信長の一代記である「信長公記」によると、(明智)光秀は本能寺の変の直前に京都の愛宕神社に戦勝祈願をし、そこでおみくじを引いたそうです。
しかし、おみくじは何度引いても凶ばかり。信長亡き後、天下を取れなかった光秀の運命を示していたのかもしれません。』なんて話もあって、そんなおみくじには気を引かれませんでしたが、御朱印はとても気になっていました。
書き置きで300円でした。
こちらの御朱印にあるのは、本能寺の変の四日前、天正10年、1582年5月28日に明智光秀が興行した愛宕百韻と言う連歌の会で読まれた明智光秀の歌の発句です。
大半が平仮名なので、この歌を漢字で書くと、
普通はこちら
①時は今 雨が下しる 五月哉
そしてもう一つ、意味を深読みすると
②土岐は今 天(あめ)が下しる 五月哉とも・・・
②は、今の岐阜県である美濃の土岐氏の流れを汲むとも言われていた明智光秀が、遂に信長を倒し天下を取ると決意した歌だと言われているんだとか・・・
5月27日に丹波亀山城を立ち、有名な明智越えを文字通り越えて、水尾登山口から、先ほど休憩していた水尾別れで表参道に入り、この愛宕山に登って来た訳ですね。
そして、愛宕神社、愛宕権現に参拝し、京都の風景を眺め、その決意を固めたと言うのもロマンはあるかもですね。
参詣の後、その日はこの愛宕山に泊り、翌日愛宕神社の威徳院西坊で連歌の会をして、その日の内に、丹波亀山城へと戻ったそうです。
しかし、こんな謀反を起こすぞ~と言う分かりやすい歌を、皆が集まる歌会で詠んでいては、簡単に信長にも心の内を読まれ、天下は取れないので、そんな歌では無いと言う解説もあります。
あなたはどう思いますか?って言われても分かりかねますが・・・
そして、6月1日光秀は1万3,000人の手勢を率いて申の刻(午後4時頃)丹波亀山城を出陣し、翌6月2日の曙の頃の本能寺の変へと突き進む訳ですね。
明智光秀とその歴史に思いを馳せながら見ると、とても奥の深い御朱印です。
そんな明智光秀が愛宕神社に登って来たと言われている5月27日(5月24日とも)が今年も近付いて来ました。
実に442年目なんですね。
なんてしみじみと思いながら、ちょうど明智光秀も見たであろう新緑の頃の愛宕神社さんをお参りして、そろそろ下山して行こうと思います。
ちなみにこちらの御朱印の水色のスタンプは、先程も話に出て来た土岐一門の流れを汲む明智家の家紋 水色の桔梗紋です。
桔梗の花言葉は『誠実な愛』なんだそうで、生涯側室を持たなかった明智光秀にピッタリなのかも知れません。
明智光秀の妻は明智煕子(ひろこ)、麒麟がくるでは、木村文乃さんが演じられていました。
そして、三女が細川ガラシャなのは皆様ご存知の通りですが、少し前のディズニープラスで10話まで配信されたドラマ『SHOUGUN 将軍』ではかなりなキーパーソンとしてアンナ・サワイが演じた戸田鞠子のモデルが、細川ガラシャなのもご存知の通りですね。
話がだいぶ逸れましたが、愛宕山のお話は次回も続きます。
そして次回にて最終回、完結編となります。