誰にも知られず森で27年間暮らした男 

 

無駄に長いうえにオカルトにまったく関係ないです。後半は「孤独」について。

 

内容は副題の通り。冬はマイナス20度を超えないような森で、27年間、たった一人きりで暮らしたクリストファー・ナイトという男性の話。おもしろかったです。

 

ナイトがすごいのは森で暮らし始めたのが20歳のとき(1986年)だってこと。それから27年間、2013年になるまでたった一度しか会話をしていないってこと。森でハイキング中のひとと出会ってしまい「ハーイ(こんにちは)」といっただけ。「ハーイ」といったは1990年代なので、少なくとも13年間、森でたったひとり、沈黙行をしていたようなもんですよ。

 

わたしはただならぬひとだと勝手に妄想して、修行者めいたひとを想像しながら本を開いたんですけど……最初ページに描かれているナイトの「野営地」のイラストに違和感を覚えました。というのも、この「野営地」にはテントがあるんです。スコップや洋服、靴もあるんです。まあ、それらはいいですよ。廃棄されたものを拾ってきたとかいろいろ考えられなくもないから。でもプロパンボンベはおかしすぎる。なんでボンベがあるの……と思って読み始めたらいやな予感的中。

 

27年間、彼は近くの別荘からものを盗んで暮らしていたんです。生きるために必要なものだけではなくテレビ、ラジオ、ゲームボーイなども盗んでいます。

 

2013年に捕まって森の生活が終焉を迎えました。ちなみにプロパンボンベを盗んでいたのは、火を焚くと居場所が見つかってしまう恐れがあるから。27年間、一度も火を焚かなかったそうです。冬は雪に足跡を残さないために野営地から一歩もでなかったそうです。読めば読むほどナイトの生活は驚きの連続です。ある年の冬はマイナス30度になったそうです。

 

そんなナイトが拘置所にいるときにジャーナリストのフィンケルが手紙を出したことで取材が始まるのですけど……このふたりの関係もいろいろおもしろいんです。たくさんの取材申し込みがあっただろうに、ナイトが話したジャーナリストはフィンケルだけだったそうです(ナイトは取材に対して何の対価も求めませんでした)。後半、ナイトはフィンケルと関わったことをすごーく煩わしく感じているようなんです。

 

『(釈放後)あなたという贅沢品にかまける余裕はないし、ぼくと一緒に過ごす栄誉を与える気もない』

 

ナイトにここまでいわれているのに、彼の釈放後、フィンケルは突然、勝手に、ナイトの家というか、実家に訪ねていくんです。

 

このフィンケルというひとはなんというか……ジャーナリストの傲慢さを持ちながらそれを自覚していないひと、というような印象をわたしは持ちました。

 

フィンケルは過去に「さまざまなインタビューをつなぎ合わせてひとりの人物にする」というジャーナリストの御法度を行っています。そのことについて『遠大な志を遂げようと奮闘したあげく、過ちを犯したのだから』なんていってナイトと自分を重ねているんです。御法度を行ったことはいいですよ。よくないけど。それよりも、冗談なのか本気なのか、こんなことを書いちゃうのはどうなのと思いますよ。べつにいいけどさ。

 

それにファンケルはナイトを心配しているようなことをいうだけで具体的にはなにもしません。ナイトから「放っておいてくれ、何もしないでくれ」といわれているのはわかるけど、自分がしたいこと(ナイトの実家に突然訪ねるなど)は心配を名目にしてかまわずにするのに。まあ、それでこの本が出来上がって、わたしが読んでいるのだから、ジャーナリストとはそういうものだ、といわれたらそうなんだろうけれど。

 

一方、ナイトは盗人で人好きするようなタイプではないかもしれないけれど(不愛想で率直すぎる、20歳で森で暮らすような変わり者だし)、森で暮らしていたとかは関係なく興味深いひとなんです。真っ直ぐな目で物事を見るし、思慮深く深遠なことをいうし、辛辣だけどユーモアのセンスも抜群。

 

ナイトは読書が好きで盗みに入った別荘からよく本を盗んでいました(聖書以外)。ヘミングウェイのことを「生ぬるい」といっていて、一気にナイトに興味が増しました。彼の文学批評はなかなかおもしろいです。

 

社会に背を向けた理由はナイト自身もよくわからないそうです。現代社会についていけなくて(愛想をつかして)、突発的に森に入っていったように思えました。彼にはサバイバル技術があったからなんとかなりましたけど、普通だったら亡くなっていたんじゃないですかね(『イントゥ・ザ・ワイルド』という映画が思い浮かびます。映画もいいけど、原作『荒野へ』もおすすめ)。

 

わたしの印象ではナイトは多くのひとと弱点がちがうだけ。本当に極端なことをいえば、生活の好みのちがいにすぎないんじゃないかと思いました。

 

『「社会にしろ、自分自身にしろ、意識して批判の目を向けてはいなかった。ただ人と異なる道を選んだだけだ」とはいえ、森の高台から世間をいやというほど見てきて、人々が物を大量に買いこむいっぽうで、地球が無造作に毒されていながら、無数の小さな画面に映った「膨大なキャンディー色のごみくず」に催眠術をかけられていてだれもが無関心なさまに、いつしか嫌悪感を抱いた。ナイトは現代社会を観察し、その低俗さを見てあとずさりしたのだ。』

 

低俗な現代社会に背を向けながら、その低俗な現代社会に盗人として寄生していたナイトよ、『だれもが無関心』ではないと思うぞ。

 

 

ジャーナリスト・フィンケルはナイトを取材しつつ「孤独」についても掘り下げています。興味深いことがいろいろ引用されていました。「孤独でありたい願望は遺伝的な要素があり予測できる(『孤独の科学』ジョン・T・カシオボ)」とか。

 

霊感・霊能の心理学』の感想で取り上げた、洞窟で三か月暮らしたあと精神的に不安定になり自ら命を絶った、女性冒険家グエンのことも書かれていました(グエンのことはここに追記しています)。

 

ナイトを取材中、フィンケルはいろいろなひとに「ひととの交流なしに最長でどのくらい過ごせるか」考えてもらったそうです(だれにも会わず、電話やメールなどのどんな手段でも通信しない。本を読んだり、ラジオ、テレビを観るのはかまわない。一切の関係を断ち、ひとりきりで過ごす)。

 

10人中9人がこれまでひとと関わらずに過ごした期間は1日もないことに気づいたんだそうです。

 

ここを読んでいたとき、わたしも考えてみました。

 

わたしはひとりでいる時間が好きだし、きっと1ヵ月、いや、1年くらい余裕だろうと思ったんですけど、実際にこれまでにひととまったくかかわらずに過ごした期間は……もしかすると1日もないかもしれないです。あっても3日くらいだと思います。ひとと関わらずにどのくらい過ごせるのか、自分でも想像できないことに気づいたんです。

 

隠者と呼ばれる多くの人たち――世捨て人、修道者、厭世家、苦行者、隠遁者、聖者――でさえ、ほぼすべてが外の世界とやりとりをしているそうです(外の世界と関係を完全に断った隠者がいたとしても、関係を断っているから見つかりようがないだけのような気もするんですけどね)。

 

ナイトはこんなことをいっています。

 

『「(略)孤独は自分の知覚を増大させてくれた。(略)その増大した知覚を自分に向けたら、アイデンティティーが消えた。聴衆、つまり何かをやってみせる相手はひとりもいない。自己を規定する必要がない。自分は無意味になったんだ」自分自身と森とを分かつ線が消滅したように感じた、とナイトは言う。「願望が消え去った。何ひとつ欲しいと思わなかった。自分の名前すらなくなった。ロマン派的な表現をするなら、完全に自由だったんだ」』

 

触れたな、と思ったけれど……釈放後のナイトのようすを読むと、この感覚は森にいるときにしか続かなかったようです。探求者・修行者だったらこの体験はその後も大きな支えになりそうです。

 

それはそうと、『何ひとつ欲しいと思わなかった』って……あなた、なんで捕まったのかお忘れですか。