明治から現代の怪談アンソロジー。

 

37作品収録されています。小泉八雲や田中貢太郎、岡本綺堂など「怪談といえば」という作家の作品もあれば、谷崎潤一郎、太宰治、森鴎外といった文豪の作品もあったり、幅広い怪談・怪奇小説が楽しめると思います。収録作品すべてにひとことずつ感想を残したいくらい楽しかったんですけど、そんなことはだれも望んでいないだろうし、わたしも望んでいないので、とくに印象に残った作品の感想だけにしておきます。

 

一番印象深かった作品は、角田喜久雄『沼垂の女』。

沼垂駅で雨に降られて困っていたとき、ひょんなことからある女性の家で雨宿りをさせてもらうことになった……というような話。

 

神経に触るこわさっていうんですかね……怪談というよりヒトコワです。認知の歪みと成功体験。そんなことが頭に浮かんできましたけど、まったく関係ないかもしれません。

 

私小説風に書かれているので、もしかしたら本当にあったことなのかも……と想像できる余地があるのが楽しいです。怪談はこういうスタイルで書かれているものが好きです。個人的な好みでは最後の章がないほうが怪談的なこわさが増すんですけど、どういうことにしろとにかく厭な話なんで、幽霊は出てこないし怪奇現象も起きない、ヒトコワが好きな人に読んでもらいたい作品です。『見た人の怪談集』という本にも収録されています。

 

平山蘆江『大島怪談』は歌舞伎役者・市川八百蔵(九世)の体験談。自殺するために三原山に行ったときに起きた心霊体験。

 

実際に体験したらそれはそれは恐ろしいと思うけれど、現象そのものはありがちなものです。だからこそ『昼間だからこれだけの話が出来るけれど、夜では十年過ぎた今でさえも、このことを思い出すさえ恐ろしいと思います。』という実感あふれることばで終わるところがいいです。そういうもんだと思うんですよ、心霊体験って。

 

おもしろかった作品は、

 

谷崎潤一郎『人面疽』、ひとりで観たら障りがある謎の映画、

畑耕一『魔杖』、非常に真実にちかいダウジング。

 

中島河太郎『怪談と怪奇小説』にこんなことが書かれていました。

 

『私は怪談は語り手が見聞きして事実として伝えようとした物語をさすもので、怪奇小説は作者の筆で妖異の世界を読者の眼前に展開させたもの、そこには作者自身の体験とか、怪異に対する信不信を問わないものと解している。』

 

この分けかたはとてもわかりやすいです。怪談、ホラー、怪奇、幻想このあたりは曖昧な感覚で使い分けていたんですよ。わたしもこの考えにならって「怪談」と「怪奇小説」を使い分けようかなと思いました。……けれども、この分けかたをするとこのアンソロジーの大半は怪奇小説になるのではないかと思うんですよね。