祟りの正体
 
「四谷怪談」はなぜ祟るのか。
第三章までは「四谷怪談」や「四谷怪談にまつわる祟り」を丁寧に追っています。第四章からお岩さまの正体を探りながら小池さん独自の考察が始まります。
 
『祟りのすべてが事実ではなく、かといってすべてがフィクションとは決していえないところに、なにがしかの真実が潜むと見られる。そのあたりの様子を探ってみたいというのが当面の私の願いである』
 
「四谷怪談」の祟りがあるのだとしたら、心霊スポットと噂を流すと何でもない場所なのに不思議な体験をするひとが出てくるように、それと同じようなことが起こっているのではないかなあとぼんやりと思っていました。「四谷怪談は祟る」というお話が持つパワー。
もしかしたら怒り狂い失踪したお岩さまが作り話を広めることを怒っているのかもしれませんが……。
 
本を読んで驚くのは小池さんがいうように「四谷怪談」には不可解な偶然が多すぎるということ。
偶然だとしても偶然が重なることが祟りだとも考えられるので、祟りがあるのだとしたら……なんて言っていられません。「ある」んですから。「ある」は言い過ぎだとしても、「祟りがあると信じられている」のはよくわかります。
 
小池さんもこの本を書いているときに、祟りなのか偶然なのか、おかしな出来事が連続して起こったそうです。それらの出来事もそうなんですが、途中ではさまれる小池さんの怪談が本当に不気味。
 
『虚構が真実を語るというけれど、そもそも虚構とは事実の再構成である。その結果、虚構が何ほどかの真実を内包するに至る場合もあれば、そうでない場合もある。つまらない虚構に終始した小説は、ひとかけらの事実ほどにも真実を語らない。』
 
「四谷怪談」または「四谷怪談は祟る」という虚構は、真実を語ることである意味、事実になったのかもしれません。
祟りの正体を探すことは虚構のどこに真実があるかを探るようなもので、はっきりと捉えることができなものなのかもしれないなと感じました。
 
『仮に作り物であったとしても、それを匂わせる要素は排除されていなければならない』
 
『人を怖がらせるにはどうしたらいいか、どういう表現が怪談を怪談たらしめるのかということに専念して「作り物」の追求に走ってしまう。結果的につまらない話ができあがる……』
 
という言葉も印象に残りました。