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『フルトヴェングラー 音と言葉』(芦津 丈夫訳 白水社)には、1919年バーデン=バーデンでのマンハイム国民劇場アンサンブルとの『ニーベルングの指環』(リング)を上演する時に書かれた「ヴァーグナー『ニーベルングの指環』の音楽について」が収められていて、この作品の特徴が的確にまとめられている。それによれば、「『リング』以外のワーグナー作品には、全体の意味を要約する前奏曲や序曲があって、それが中核となって作品固有の様式を生起して最後の数小節に至るまで働きかけるが、『リング』にはそれがない。」この論文から少し引用してみる。

「(『リング』以外のヴァーグナーの作品においては)様式のあり方や性格が、他の作品の場合とは異なるのである。そこでは全体に本性と色彩をもたらす特定の人間的・詩的な雰囲気が冒頭部から感じ取られるのに対し、『指輪』にあっては、すべてが多様な個々の事物からおもむろに築き上げられる。神々、巨人、こびと、ラインの河底、ニーベルハイムの岩屋などにしても、最初のうちは、あたかもそれ自体で存在し、結合力に乏しい貧弱な筋のために存在しているのではないという観を呈する。ジークムントとジークリンデの登場によって、きわめて徐々にではあるが人間的なものが支配しはじめ、最後にジークフリートという理想像となって事故を完結する。」

「『指輪』の中核と呼びうるもの、たとえば奪われたラインの黄金にまつわる悲劇的宿命の理念などは、あくまでも抽象的な、思考された一つの理念にすぎず、それゆえ音楽にとっては把握が困難である。」

「音楽と舞台との共同作業が、ヴァーグナーの他の作品の場合よりも、はるかに緊密なものとなる。ここで演奏される音楽は、あの神々、英雄、巨人、こびと、火、水などの現象そのものなのである。音楽は完全に個々の瞬間に結びつけられ、すべてが明確さに従属せしめられる。これ以上に純粋な「劇音楽」は存在しない。ここに、あの一連の、抽象化とすらいえるほど簡素にされた動機(モティーフ)が生まれる。これらの動機は、その未曾有の彫塑性と簡潔さによって、ヴァーグナーの他のいかなる音楽よりも一般に親しまれるものになった。しかし動機がドラマ全体の内部で占める本来の意義は、究極的には、動機が最初に現れ、まさに舞台と協力する時点でのみ発揮される。これらの動機は孤立していて、継続性がなく、それゆえ他の作品のいくつかの中心主題に見られるように、それ自体で雰囲気をかもし出しながら創造作用を営むことはない。だから、それ以後の経過にぴても、むしろ記憶の標識、建築用石材として用いられる。しかしこれによって、あの「主要動機」(ライトモティーフ)の独自の手法が展開されることになる。」

元々録音嫌いだったフルトヴェングラーは、1952年の『トリスタンとイゾルデ』での録音に満足して、翌年にローマで『リング』を演奏会形式で上演する際、フルトヴェングラー自らEMIに録音することを提案したが、EMIは、この作品をウィーンフィルとのセッションで録音したいと考えていたため、折角の提案を断ってしまった。ローマでの演奏会形式の『リング』はフルトヴェングラー自身が満足する出来で、幸いにもRAIによって録音が残された。その次の年にウィーンフィルと『ヴァルキューレ』が録音されて『リング』4部作の一つ目が完成したものの、録音直後にフルトヴェングラーは風邪をひいてしまい、肺炎になってそのまま亡くなってしまった。結局、ウィーンの『リング』は未完成に終わったのである。

フルトヴェングラーの死後、エリーザベト未亡人が夫の『リング』への打ち込みを知っていたのでローマ録音のレコード化を働きかけた。EMIは「ローマのリング」をレコード化しようとしたがRAIとの折り合いが上手くいかなかった。全曲をレコード化したかったRAIに対して、EMIは、ウィーンフィルとの録音がある『ヴァルキューレ』以外だけをレコード化したかったのである。1972年にようやくレコード化の運びに至った時にはすでに遅く、オリジナル・テープは失われて、テープから保存用に作られたレコードしか残っていなかった。EMIから出たのはその保存用レコードから作られたものだが、旧ソ連のメロディアから出たレコードの『ジークフリート』だけは、不思議なことにオリジナル・テープから作られたレコードで、EMIのレコードとは聞こえ方が違う。もしも全曲がオリジナル・テープで残されていたら、フルトヴェングラーの代表的な名盤として、もっと高く評価されていたであろう。

1954年
●9月28日-10月6日 ウィーンフィル 楽友協会 EMIスタジオ録音
ワーグナー:『ヴァルキューレ』全曲

ウィーンでの『ヴァルキューレ』セッション直後にフルトヴェングラーが体調を壊したため、第3幕はカラヤンが代役を引き受けて録音が完成されたという噂が流れたが、当時録音に関わったウィーンフィルの団員によって否定されている。レコードから聞こえる音楽の中に、カラヤン風に聞こえる部分は皆無だ。演奏内容はフルトヴェングラーらしい語りかけるような演奏で、全曲を通じて全くその方向性は変わっていない。この楽劇の最後で、ヴォータンが娘のブリュンヒルデに別れを告げるが、フルトヴェングラーはこの演奏を通してこの世に別れを告げたのかもしれない。或いは、エリーザベト夫人への別れだろうか。

「ヴォータン:
さようなら、大胆で輝かしかった娘よ!
なんじ、我が心の神聖なる誇りよ、さようなら!さようなら!
今、わしはお前と別れねばならぬ、我が挨拶ももはやお前に親しく向けられることもない。
お前もわしの脇を馬を走らせることもないが、また、宴の席で蜜酒をわしに注ぐこともない。
わしはお前を、わしの愛する我が目の笑う喜びをなくさざるを得ないが、
花嫁にふさわしい引き出物の炎をお前のために燃やすことにしよう。」

「いまや、最後の祈りだ、今日、わしを湿してくれるのは、別離の、惜別の接吻だ!」

「こうして神はお前に暇を与え、お前の神性を接吻によって抜き取る!」

(『オペラ対訳ライブラリー ワーグナー ニーベルングの指輪(上)』 高辻 知義訳 音楽の友社の『ヴァルキューレ』第3幕から)

1952年7月末、『フィガロの結婚』のリハーサル中にフルトヴェングラーはダウンして、高熱を出して肺炎になり、一時深刻な状態になった。この時に使われた抗生物質の副作用によって、日によって聴覚に障害が出るようになり、次第に悪化した。ベルリンフィルとの最後の演奏会となった1954年9月19日と20日に向けてのリハーサルでは、フルトヴェングラーの難聴がひどくなっていることが分かって楽員達がとても衝撃を受けたことが伝えられている。この時に演奏されたのはベートーヴェンの交響曲第1番と自作の交響曲第2番で、録音されたものの、自作については巨匠が不満な出来だったため消去が命じられたという。『フルトヴェングラーの手紙』(フランク・ティース編 仙北谷 晃一訳 白水社)には、この演奏会の数日後の、妻エリーザベト宛の、難聴に苦しむ悲痛な内容の手紙が収められている。

「妻エリーザベト・フルトヴェングラーに
                   ベルリン 1954年9月25日
 今日は最後の日。
 地獄へいたる道がよき決心で舗装されているという諺がもしほんとうなら、今こそぼくは「地獄への道」をまっしぐらに歩いている。でも、ぼくはまだ天国を信じているし、きみの来るのが愉しみだ、エリーザベト。―昨日、耳鼻科の医師から聞いたが、ぼくの病気は血行障害以外のなにものでもなく、内科に見てもらう必要があるのだそうだ。補聴器は、ぼくのような(とは音楽家の)場合、ぜんぜん役に立たぬという。結局、レーヴェンシュタインさんのお見立てと同じわけだ。……
                                            W」

バーデン=バーデンに帰ったフルトヴェングラーは、「暗黒の日々」だったと妻のエリーザベトに告げて、「指揮台を降りたとき、二度とあそこには立つまいとぼくは決心した。」と言ったという。フルトヴェングラーは、きっと『ヴァルキューレ』のセッションが、指揮者としての最後の仕事になると思っていたか、そうしようと決心していたであろう。9月19日、ベルリンでの演奏会では、録音が残っているベートーヴェンの交響曲第1番を聴く限りでは、「最後」を思わせる要素は何も聞こえない。ベートーヴェンの核心に迫ろうとするひたむきさが、この比類のない偉大な指揮者が演奏に向かう姿のドキュメントとして伝わっている。非ナチ化審議の苦悩の時代に作曲された、自作の交響曲第2番はどのような演奏だったのだろうか。

エリーザベト夫人によると、自作を振ることからくる興奮が収まって、その後の『ヴァルキューレ』のセッションでは耳がよく聞こえたという。エリーザベト夫人によれば、そのことでフルトヴェングラーが喜んで、録音期間中にみるみるうちに若返っているように見えたという。セッションの後、家庭でのフルトヴェングラーの仕事ぶりが全く変わって、肘掛椅子に座って子ども達と遊びや本の話に興じるようになって、夫人を心底不安がらせたという。もう小声でひとりメロディーを口ずさみながら指揮の身振りをする姿が全く見られなくなったそうである。夫人との語らいは徹底的に陽気であった。最後の語らいの一つは、博愛についてで、「人間に博愛をもたらしたのはイエスであり、この博愛こそはキリスト教を切り拓いた偉大な新生面なのだ」、と言って、それからは口をきくことが稀になった。フルトヴェングラーは1954年11月30日にバーデン=バーデン近郊のエバーシュタインブルク病院で亡くなった。

『フルトヴェングラーの手記』(芦津 丈夫・石井 不二雄訳 白水社)で、フルトヴェングラーが演奏家の課題を、次のように述べている。

1937年
「二種の優れた演奏がある。まず、優れた演奏そのものが際立つような演奏。私の同僚のなかで最も有名な人々の演奏がそれである。次いで、演奏については何ひとつ語られず、ただ「作品」だけが感銘を与える演奏。当の作品そのものが私に感銘を与え、そこに作曲家の声が聴き取られるような演奏は、常に優れている。そして私の考えでは、これこそがわれわれの真の課題である。(後略)」

『回想のフルトヴェングラー』(エリーザベト・フルトヴェングラー著 仙北谷 晃一訳 白水社)などを読むと、フルトヴェングラーは『ヴァルキューレ』が、自分の最後の演奏になると分かっていたと思う。「ただ「作品」だけが感銘を与える演奏」を目指していたフルトヴェングラーが、自分の個人的な感情を、不必要に演奏へ加えようとしたとは思えないが、『ヴァルキューレ』の最後のヴォータンによる語りと音楽が、自分の現世への別れと重なった可能性は十分にあると思う。フルトヴェングラーが生涯にわたって上演したオペラの中で、『フィデリオ』と『トリスタンとイゾルデ』は、すでに商業録音を済ませて良い録音での「遺産」が残せたので、最後のレコーディングとして、残る作品で選ぶとすれば、『ヴァルキューレ』か『神々の黄昏』だったであろう。『神々の黄昏』でのブリュンヒルデによる最後の場面よりも、『ヴァルキューレ』での、父ヴォータンが娘のブリュンヒルデに別れを告げる場面こそ、フルトヴェングラーによる別れの音楽に相応しい。また、残された15歳頃の手紙を読むと、フルトヴェングラーはワーグナーを評価していなかった。それがワーグナーを高く評価してきちんと演奏できるようになった事は、音楽的な成長であり、自分の最後の演奏としてワーグナーを選んだのは、信心深かったフルトヴェングラーにとっては、「神への感謝」を表明した意味もあったのかもしれない。『エリーザベト・フルトヴェングラー 101歳の少女 フルトヴェングラー夫妻、愛の往復書簡』(クラウス・ラング著 野口 剛夫訳 芸術現代社)によると、フルトヴェングラーは、このレコード録音の出来映えに、大いに満足していたという。

晩年になるにつれて『リング』への関わりが深くなっていただけに、フルトヴェングラーの『リング』が、殊にローマの録音が最良の形で残されなかったのはとても惜しいことである。1952年の薬の副作用で聴力の衰えを感じたのは、フルトヴェングラーがEMIに録音の提案をしたのと関係があったかもしれない。というのは、難聴が始まって以来、演奏会形式では可能でも、歌手との距離が広がる本格的なオペラ上演は難しくなったと伝わっているからである。本人としては、オペラの指揮が難しくなる前に敬愛するワーグナーの傑作『リング』に本気で取り組んで、後世への記録も残したかったのではないだろうか。ローマの『リング』とウィーンの『ヴァルキューレ』は、巨匠の集大成として、かけがいのない記録である。

ワーグナー:楽劇『ワルキューレ』

 マルタ・メードル(ブリュンヒルデ)
 レオニー・リザネク(ジークリンデ)
 フェルディナント・フランツ(ヴォータン)
 ルートヴィヒ・ズートハウス(ジークムント)
 マルガレーテ・クローゼ(フリッカ)
 ゴットロープ・フリック(フンディング)、他
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

1954年9月28日~10月6日 ウィーン 楽友協会大ホール

写真:
´▲魯ぅ妊襯戰襯の山の手墓地にあるフルトヴェングラーの墓
ハイデルベルクにあるフルトヴェングラーの葬儀が行われた聖霊教会
ず埜紊力寝擦砲覆辰織錙璽哀福爾痢悒凜.襯ューレ』 英ALP-1257/61(5LPs)
ケALP-1257/61(5LPs)付属の解説書