【長文】悲劇を作り出す | オカハセのブログ

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Facebookにシェアするために、以前❶と❷に分けて投稿したこの記事をひとつにまとめました。


    ケニアの昔話


      「勇気ある男」


    むかしむかし、ある大きな森のはずれに小さな村がありました。
 この村では小麦の取り入れが終わると、森の向こうの町まで出かけて小麦を粉にひいてもらいます。
 ですがこの森には恐ろしいヒョウが住んでいる為、これまでに何人もの村人がヒョウに食べられていたのでした。

 ある年の事、十二人の男たちがそれぞれに小麦の入った袋をかついで、森の向こうの町へ出かけました。
 十二人の男たちはヒョウに襲われない様に気をつけながら町へ行き、小麦を粉にしてもらいました。
 そして十二人の男たちはヒョウに注意しながら、粉になった小麦の袋をかついで村へ戻っていきました。
 無事に森をくぐり抜けた時、先頭の男が言いました。
「やれやれ、無事に森を抜けたぞ。ここまで来れば、もう大丈夫だ。よし、十二人ちゃんといるか数えてみよう。一人、二人、三人、四人、五人、六人、七人、八人、九人、十人、十一人」
 先頭の男が一人一人数えてみると、なんと十一人しかいません。
「しまった! 一人足りないぞ」
「まさか、そんなはずはない」
 別の男も数えてみましたが、やっぱり十一人しかいません。
 なぜかと言うと、実は二人とも自分を数えるのを忘れていたのです。
 これではいくら数えても、一人足りないはずです。
 ですが誰も、その事に気付きません。
「どうしよう? きっと誰か道に迷って、ヒョウに食われてしまったんだ」
 三番目の男が、言いました。
「だから、ちゃんとみんな一緒に行こうと言ったのに」
 四番目の男が、言いました。
「そうだよ。追いつくまで、待ってあげればよかったのに」
 五番目の男が、言いました。
「それにしても、おそろしく大きなヒョウだったよ」
 六番目の男が、前に一度だけ見たヒョウの事を思い出して言いました。
「そうさ。それに、すごいキバを持っていたな」
 七番目の男が、言いました。
「でも、あいつはすごいなあ。武器も持たないで、ヒョウと闘ったんだから」
 八番目の男が、言いました。
「本当だ。たった一人で立ち向かっていったんだから、村一番の勇気ある男だよ」
 九番目の男が、言いました。
「でも、いくら勇気のある男でも、ヒョウに食われてしまってはどうにもならないよ」
 十番目の男が、言いました。
「そうだな。しかしそれを奥さんに伝えるのは、つらいなあ」
 十一番目の男が、言いました。
「本当に。あいつは勇気があって、それに親切な男だったよ」
 十二番目の男が、しみじみと言いました。

 そして十二人の男たちは村に帰ると、涙を流しながら消えた仲間の事を話しました。
 村人たちはびっくりして、村は大騒ぎになりました。
 するとその時、一人の女の子が言いました。
「あら。でも小麦粉の袋は、ちゃんと十二個あるわよ」
 すると村長さんが、
「では、わしが人数を数えてやろう」
と、十二人の男たちを一列に並べると、一人一人指をさして数えました。
「一人、二人、三人、四人、五人、六人、七人、八人、九人、十人、十一人、十二人。おおっ! いなくなった男が戻ってきたぞ!」
 それを聞いて、みんなは口々に言いました。
「すごい! 一人でヒョウをやっつけてくるとは」
「そんな勇気のある男が、この村にいたのか」
「ヒョウをやっつけるなんて、村のほこりだ。お祝いをしよう」
 こうして村人たちはさっそくお祝いをして、この勇気ある男の話しをいつまでも語り伝えたという事です。

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ケニアの昔話の「勇気ある男」は、確か小学校高学年の頃の国語の教科書に載っていた物語です。

小学生の頃は自分を含めクラスの生徒の多くは「こいつらアホだ、ウケる〜」というレベルで捉えていました。
その後何十年もの間この物語の本当の言わんとすることを理解していませんでした。ただこの物語は強く印象に残りずっと覚えていました。
自分を数えずに1人足りないと言って悲しんで、正しく数えて人数が揃ってると喜んで祝いをする…
だけど実は誰もいなくなってないから悲しむ必要もないし、誰も戻って来てないので祝いをする必要もないのです。
当時の僕はコントみたいで面白いという風に捉えていました。国語の先生は多分いろいろと意味のあるコメントをしてたのだと思うけど、多くの生徒は聞いてなかったと思います。
世の中が今ほど殺伐としていなかったから当時の小学生にはこの物語が言わんとすることに気付けなかったのだと思います。

つい最近になって、この物語は実は【思い込みや感違いは人間にとって錬金術並みの力がある。本来ならつらくないことを誤解して自分の命を絶ってしまったり、本来ならつらくてどうしようもないことなのに気付けず感違いして楽しい事になったりする】そういう人間ドラマを書いているのではないかと気付いたのです。

人って結局のところ悲しみも喜びも自分の中で作り出しているのだと思います。
まさに般若心経で【この世は幻想】というように(般若心経に限らずですが)この世は【幻想を作り出す事を通してあの世ではなかなか味わう事の出来ない感情やドラマの経験する】事に意味があるのかもしれません。

そういう意味ではもしかすると【思い込みや誤解や感違い】というものこそが経験すべき大事なことなのかもしれないと感じます。

この古いケニアの昔話の中では。
自分を数え忘れて悲しみにくれる。
最後に数え忘れずに「戻って来た」と喜び祝いをする。
このどちらも【「悲しみ」と「喜び」という強力な「感動」を経験している】のです。
思い込みや感違いがなかったらこれらの感動はできなかったわけです。




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