夏が来れば思い出す、お嬢さん方が薄着になる季節です。本日は邪淫の煩悩垂れ流しな話題です。
エレクラの元スタッフで、大変落ち着きのある者がいた。例えて言うなら、STONESのCharlie Wattsのような、どうでしょう班で言うならうれしーのような、とにかく後ろでで~んと構えていて、時折びしっと場を締める、ご意見番のような存在だった。エレクラスタッフにも一目置かれていて、それは当然私の周囲のお嬢さん方にも浸透していた。
ある日のこと。私と当時お付き合いしていたお嬢さんの何気ない(?)会話。私は長澤まさみは悪女体質だとか、安めぐみに背中を癒されたいだとか、煩悩丸出しの会話を続けていた。普段から私の邪淫ぶりを快く思っていなかったそのお嬢さんは口をとがらせこう言った。
「Jさん(そのご意見番のような彼のこと)は絶対にそんなこと思わないはず」
私は即座に、ハ?と首を傾げた。
「確かに話はしないだろうが、彼だって家に帰ったら半裸の長澤まさみが廊下を掃除していたら、ムラムラして普通じゃいられないはず」
お嬢さんも負けてはいない。
「確かに半裸の長澤まさみならムラムラ来るだろうが、その前にJさんならそんな想像はしない」
ごもっともだが、なぜか話はおかしな方に進んでいったのだ。
では半裸と言うが、どれぐらい半裸ならガマンできないのだろうか?例えば、上半身裸、触り放題眺め放題。しかし下半身はびっちりと衣服でガードされ、拝むことはおろか触ることすらままならない。それで果たしてガマンできるのか?例えばそれが逆だったらどうか?上半身は夏でも冬の装いのごとく肌すら見えない。しかし下半身は身に纏うモノひとつない。
さらにこういうのはどうだ?右半身裸、左半身完璧ガード。もう少しイキなお嬢さんなら、前から見ると普通の出で立ち、しかし、後ろは何も隠すモノがない。そういう衣服が可能かどうかは、この際さておき、それでも半裸には違いない。半分裸なのだ。もっとアーティスティックな彼女なら、右上半身左下半身はだか、左上半身右下半身衣服装着。格子状の、実現すればどこかのコレクションでひときわ人目を引くはず。かような姿で果たして欲情するのか?もうここまでいくとまるでSF。禅問答のごとき会話である。
結局私が出した結論。欲望を果たし終えることのできる下半身裸でどうだ?結論出す私も私、ということはひとまずおいといて。
これを読んでいただいているお嬢さん方、どうか逃げないで。ちょっと知的な言葉遊びと解釈してね。
日本語とはかくも曖昧な表現で、私たちの心身を惑わせるモノだ。半裸の別儀語、セミヌードもこれまた曖昧だ。セミ、とはどこまでセミなのだ?フルに対してのセミだ。フルが一糸纏わぬ姿と仮定するなら、セミは一部分露出していると言うことだ。それなら水着姿のお嬢さん方はみんなセミヌードだ。夏の市民プールはほとんどが18禁の世界になってしまう。
さらにフルヌードというのも巧みな表現だ。よく男性週刊誌でついに脱いだ!とか、フルヌードに挑戦!という衝撃的な言葉が踊る。だいたいその前には、あのお天気お姉さんが、とか、清純派アイドルが?とか「あの」を強調する。私が単純なのか、根っから煩悩バカなのかはわからないが、それこそまんまと引っかかるクチなのだ。
ワクワクして買ってみてみると、確かに全部脱いではいる。しかし全部見えているわけではない。当たり前だ。全部見せているとはどこにも書いてないのだ。買ってからそのことに気付くのだ。虚しくその笑顔を眺めながら、世の無情を嘆きつつタバコを一本くゆらせて月を見上げる・・・。
一度某サラ金のCMで名を挙げた某お嬢さんが、ついに脱いだ!と銘打って男性週刊誌の広告に登場。私は一応教訓を胸に刻み込みながらも、淡い期待を胸にコンビニでその雑誌を手に取った。幸いそのページは巻頭だ。見た途端・・・私はがっかりした。彼女は確かに脱いでいた。しかしそれはただ服を脱いで水着になっただけだ。広告に偽りはない。しかし、ついに脱いだとはなんだ?ヤツはそれまで一度も服を脱いだことはないのか?毎日同じ服で生きてきたのか?学校はどうした?風呂入る時もその格好か?
そうさ、表現の自由が保障されている自由の国日本、自由経済の下コマーシャリズムが発達した日本。現実はそんなモノだよな。そう溜め息をつきながら、ダイエット・コークを一本手に取りレジに向かったのだった・・・。
半裸、セミヌード、ヌード、脱衣・・・、もっと言えば無修正というのもあるな。これは・・・やめておこう。これ以上品格を下げても意味がない。
はるか昔高校生の頃、写真時代という伝説的雑誌の編集長だった末井昭氏が書いた「素敵なダイナマイトスキャンダル」というエッセイを読んだ。その中にこんな言葉があった。うろ覚えだが、だいたいこんな感じ。
「男がなぜ女性のピーに惹かれるかというと、男達はそこに愛が詰まっていると信じているからである」
愛をこの目にしてみたい、愛に触れてみたい、愛を自分のモノにしてみたい。そうして男達は飽くなき探求の旅を続けているんだな。お嬢さん方がそういう男達を見て若干引いていくのは、自分たちが愛を持っているからなのだろうな。探す必要もなく、そこにあれば、旅に出る目的もない。
そして男達は失敗を繰り返す。何度も同じ失敗を繰り返す。たまにそれが手にはいると小躍りして、辺りをパレードでもしたくなるように舞い上がってしまう。私という男が、なのか、男の私が、と言うべきか、とにかくその繰り返しで男の人生は回り続けていると、私は思っているんだよ。
旅の間にいろんな仏像を見た。今日の昼間も衛星放送で仏像の特集をしていた。仏像って特に立像の場合、艶めかしく腰をひねっているのが多いんだよな。薬師寺の月光、日光菩薩(二体揃ってただいま東京へ出張中)の妖艶な立ち姿なんか見ると、あぁ、男の視線だよな、と思うことがあるんだ。男にとって愛の象徴というか、無限のパワーを秘めているモノ、憧れの象徴のような気がするんだ。だから一心に手を合わせるんだよ。
もともと日本に入ってきた仏教は、原初仏教に比べると、欲望に関して寛容なんだ。だからこそ民衆に根付き、ひとつの文化を形成していったんだと思うんだよね。その真ん中に男の視線があるって言うのは、興味深いよ。特に私のような邪淫の煩悩の固まりにはね。
梅雨が明ければ、夏真っ盛り。太陽光は欲望を増長させる効果があるそうだ。私はこの季節にクルマで出かけた時なんかいつも、道行くお嬢さん方の姿を見てこう言うんだ。
「あれってもう、半裸じゃん」
お嬢さん方、ご注意召され。
それでは今日はこの辺で、ご機嫌よう。