備前焼ツアーズ | ELECTRIC BANANA BLOG

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しまさんの独り言、なんてね。ハニー。
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焼きの味わいだよ、ハニー。寄り合いのために約二日にわたってパソコンを点けないと、なぜかルーターがご機嫌めになっていたで御座るよ。それ以前から症状は出ていたのかもしれんけど、台風後というのがに掛かるで候。そういえばこのルーターを買った時、車が動かなくて、転車で近くのヤマダ電機まで走ったんで御座ったな。

 

て。

 

その日、事前にウコンを飲んでいたおかげで、酊したあげく醜態をさらす、という風にはならず、無事ホテルに戻ってきたんだけど、なんだか神経が冴えてしまって、BSでやっていた長崎くんちの映像をぼんやり見ていたのね。ああ、ゲストの女の子愛いなぁ、とか思いながらね。しかし、翌日、寄り合い参加者の方とり合わせて、備前まで行くのだ。早く寝ないと、と思い直し、ベッドにり込んだね。

 

そう、どうでしょうの寄り合いはまだわっていないのだ。

 

今回どうでしょうディレクターのお二人が岡山に来られたのは、備前焼を見て回るのがメインの的。それにどうでしょうファンがっかった、という体裁。奈乃で、二日目は、備前に場所をすというわけ。

関東からお越しの方お二人を乗せて向かった備前、車中でこんなにどうでしょうの話をしたのはおそらくめてかな。そもそも、どうでしょうの話でり上がったのって、何時の話だっけ。でも、そういうのって、いね。

 

備前はもちろん、備前焼の。陶芸作家の方々にいろんな話をき、窯や工房を見て回り、最後はどうでしょうディレクターお二人がロクロを回すところまで見たのね。備前は情のある街並みで、いつも見ている香川とはまるで違う。ているようで何か違う、そういう所が旅の楽しみでもあるよね。

でもね、私が一番味を惹かれたのは、まさしく作家の方々。比べるのはおこがましいのはわかっているけれど、もの作りのっこにぶら下がっている私としては、そこにいる人の話がものすごく興味深かったのね。もちろん、自分の創作の取材を兼ねて、みたいな部分も無いわけではないけれど、こういう言い方は変だけど、自分が工場で働いていた頃をい出したよ。自分はこれほどまでにストイックでも、仕事に何か使命のようなモノを感じていたわけではなかったけれど、それなりに鍛練を重ねた日々だったよな、とかね。

 

そこで、ふと、自分の中の化というか、そういうものに気がついた。例えば、このブログが始まった頃は、人間関係がわしかった。まぁ不祥事で痛い目にあった直後というのもあったし、人と人との関わり合いの中に弊していた、というのは事実だった。それ以降も近所の迷惑駐車のこととかね、煩わしいな、と思うことは々あったのよ。それもコレも、がすること、ってね。

ごく最近だって、所の人にね、っていうコトはあったし。ただ、その時、このブログでも話したように、っとけ笑っとけ、って思えてから、何というか、そのひとつの決着点がこの備前に赴いた私だったのかな、と自覚したのね。

 

不思議なモノでね、笑っとけ、って思うと、笑おうという志が働く。するとね、なんとなく、イヤなことからは目を背けるようになるんだけど、かわりにいことを重ねよう、作り出そう、というような感覚が産まれてくるのよ。もちろん、オレを理不尽に怒鳴りつけた近所のおっさんは今でも嫌いだし、不祥事前後のことも未だにに持っている。でもね、そういうことは隅に置いておいて、別に私に悪気があって接触してこない限り、いい関係を結ぶ努力をしようというのか、なんか優しくありたい、と思うのね。

 

だからこそ、人に興味が湧く、というか、その姿にきつけられる。

 

オメェ、それが当たり前の人付き合いだよ、ってい思われるのは重々知。だけど、私は、それを感じたんだから仕方がない。自分が小説を書いているウチに、なぜか自然と族の話になっていって、このオレが?と思いつつも、なんとなくその引力に引かれていった。その秘密が、結局心の片隅に残っていた、人への興味が根本にあったんじゃないかな、と。余談ですが、その発見は私の中でかなり愕で、そのことにかなり圧倒されているのが今なのね()

でその日、それを割りと早い内に感して、結局一日歩いている間は、ずっと人ばかり見ていた。いろいろと問もしたりしたけど、もっぱら見る側に廻ってたのね。もちろん参加者もそうだけど、家さんの立ち姿や視線とか、作家さん同士の会話とか。街並み、窯のある風景、そこにあるモノ、ディティール、色んなモノが、こういう言い方は変だけど、私に何か語りかけているような、そんな気がしたのね。もっとも、それは備前焼のツアーだから、みるべきモノは備前焼なんだけど()、そこはそれ、潰しだから。

 

それに、作品の善し悪しって、分かるモノじゃなく、づくモノだと思うのね。使ったり触れたり見つめたり、そんなでフッと気づくモノ。それが自分との離感なんだと思う。その気づきのために、き合うんだろうと思うのよ。私の場合、ギターなんかがそうで、不安を抱いていても何とかなるんじゃない、というのは、そういう所からまれるのかもしれないね。

私も廉価な備前焼の小さなカップをひとつ買ってきて、毎日使っている。湯がみていく感じが、独特で、なんだかじっと見つめてしまう。そうやって、良さは次第に私の中に堪っていって、いつか開くんだろうな。

 

でね、今回の一連の更新で、私はひとつめたことがある。それは備前から離れる時に、頭に浮かんだことなんだけど、今までブログでも、そして他のところでも、自分の作品を「い話」という風に表現していたのね。それは小説、というにはほど遠い、という引け目から感じていたんだけど、なんとなく、それは憾な、と。

いのは変わらずとも、ちゃんと自分の作品は、ちゃんと小説、と云おう、とね。

些細なことだけど、たぶんそこからまるんだと思う。そろそろ、コタツの季節になって、ガンプラもエレクラも足がのきそう。やることはひとつ、新たな小説をみ出すこと()。その為の二日間だったんだ、と云えるように張らないと。

 

でもね、備前から帰ることになって、しさと、そしてこの寄る年並からくる疲れで、またしても人でなしな感じでみんなと別れてしまったかな、とまたしても自分の不甲斐なさに落ち込んだのね。ケンさんのオフ会の時は、東京から帰ることが、東京から放されるようで、なぜか羽田についてニヤけてしまった、という話をしたけど、今回は、泣きそうな程寂しかったんだよ。ああ、せは長続きせんのやな、って。

 

あれから時間がたって、ちょっとずつ、その幸せをみしめられるようにはなってきた。寄り合いの時にも、大上段からりかぶったんだけど、中学の時から読んでいたケンさん、そして十年以上前から好きだった水曜どうでしょう、そのディレクターお二人。逢いたいと思っていた方々のウチ、もう三人と肩を並べて酒を飲み、話をすることが来た。これはいことだよ。夢はい続けることが大事なんだね、と。

 

すると、この分だというちに、ミックかキースにも会えるんじゃね?

 

なんてね、それよりはこころの火野正平さんじゃね?って云ってみました。裏番組の宇賀なつみさんにデレッとしているために毎日画して見ていますが、年に一度とは言え、ちっちゃい香川ならどっか走ってても追いかけられそうな気がします。相手は転車だし。そりゃミックやキースよりは逢いやすそうではあっても、じゃあそれほど火野正平さんにいたいか?と問われるとちょっと首を傾げる、ってコトで。

 

それでは今日はこの辺で、ごきげんよう。