風邪に負けているよ、ハニー。結局、咳は直らず、もう一ヶ月以上長引いているのね。発熱した時に、ちょっと思ったけれど、昔は苦しいだけだったけれど、最近は心臓とか多少弱っている気がして、このまま逝ってしまうのか、というのが冗談でなく感じてしまう今日この頃。一度救急車で運ばれているからなぁ。
さて。
今はもうはっきりと、何がきっかけだったのかは忘れたのだけれど、「君は天然色」のシングルを持っていたから、きっとCMソングとか、その辺からとっついたんだろうと思う。ちょうど中学にあがったばかり、とかそのころだと思う。
私たちの世代の、今でも音楽に取り憑かれている奴の多くは、まずファースト・コンタクトがYMOだった。小学生にとって、それは未来の音楽に思えた、というのは、高野寛さんが司会をしていたソリトンSIDE-Bに石野卓球さんがゲストに出た時のセリフだけれど、まさしくその通り、いわば音楽ではなく、あれはSFだった。つまり、当時流行っていた宇宙戦艦ヤマトや、ウルトラマンや、機動戦士ガンダムと同列だった。
形態としての音楽を、音楽として楽しむ、ということを覚えたのは、YMOを卒業してから。ちょうど中学生になるのと時期が重なっていて、その最初が「A LONG VACATION」だった。
ロンバケ、なんてあの頃には云ってなかったし、それは後のキムタクのドラマでそういっていたのだけれど、便宜上ここではそういう言い方をすると、ロンバケは、美しさにあふれたアルバムだった。それ以上の深いところまで手を伸ばすのは、もっと音楽に密接に関わるようになってからで、中学生にはとにかく、きれいなもの、という言葉すら形にならないレベルで、魅了されていた。
ただ、そのころは、強く歌詞に引っ張られている頃で、そういう意味では、ロンバケは松本隆のアルバムだったのかもしれない。音そのものの美しさに気づくのは、やっぱりその歌詞をいろんな意味で乗り越えた頃だった。
それでも、私の中でロンバケはいろんなものの初体験と重なっていて、たとえば、ちょうどギターを初めて手にした頃で、初めて買った楽譜が、大瀧詠一さんの弾き語りスコアだった。ちなみにそれは、数年前に増補されて再発され、もちろんそれも手に入れている。そこに「乱れ髪」の楽譜が入っている。
そのギターで初めてまともに弾いたソロが、さらばシベリア鉄道のギターソロで、次は高校に入ってからU2のニューイヤーズデイのソロだった。どちらもシングルピックアップ、という共通点はあるものの、たった二年足らずで、ずいぶんと音楽性が変わっている。
でもそこが重要で、ロンバケはいわば、私の音楽遍歴の中で、YMOから次にくる洋楽やロックへの橋渡しとしての存在が大きかった。ロンバケの参加アーティストを見ると、YMO関連のアーティストがたくさんいて、そういう意味では、ちゃんとつながっていたのだ。
そして、その次にナイアガラ・トライアングルVol.2というコンピレーションアルバムが出て、これにもまた虜になる。私はここで、まず佐野元春を知り、そして杉真理に出会うのね。その辺の話 は、ずいぶん前にしたのでここでは端折るけれど、そこから私はロックにどっぷり浸かっていく。
つまり、ロンバケ、そして大瀧詠一というアーティストは、私の中で上質のポップス、という今ではもう死語になった定冠詞の、唯一と言っていい担い手だった。それはどこまでも、美しさに彩られていて、まぶしいぐらいに輝いているのだ。だが時として、美しさは目をくらませることもあるし、そして儚い。かつての歌謡曲、と呼ばれたジャンルが消費され尽くしてしまった遠因は、その美しさを誤解したからかもしれないと思う。
最近になって、純粋なポップスの美しさには、切なさのスパイスが必ずかかっていることに気づいた。
さっき云った、歌謡曲というのが、その切なさのスパイスを美しさ故に排除してしまったために、いくつかの佳曲をのぞいて、あっという間に消えていってしまった気がする。
切なさのスパイスが重要なファクターであるのはきっと間違いないのだけれど、それこそが日本人の琴線に触れる所以は、その切なさの起源が日本人が古来から受け継いできたものの中にあるからなんだろうと思う。わかりやすく云えば、演歌の中のもう日本には存在しないようなうらぶれた感覚や、自己主張しない女性の悲哀、みたいなものが醸し出す切なさ。それを、日本人は演歌や浪曲の中で、絶妙に音にしてきたと思う。
それを美しさの中にひっそりとスパイスとして潜ませたのが、大瀧詠一さんに代表される黄金期のポップスの秘密なのだろうと、今になって思うのね。
ただ、切なさのスパイスは、別にポップスだけに限らず、いろんな音楽にも含まれている。去年ブルースばかり聴いてきたけれど、あれなどはまさしく切なさに彩られた音楽だ。
でも、実は日本のポップスは、ブルースとは無縁であるからこそ、ポップスを美しさの中で消化させることが出来たんだろうと思うのね。もちろん、音楽の歴史の中で、ブルースは今の音楽のもっとも原点の中にある。ここで云うブルースと無縁、というのは、ブルースのイディオムを受け継いでいない、という意味。
ブルースの鬼子がロックで、今ちまたに蔓延する音楽のほとんどがロックの範疇に押し込まれるのは、とりもなおさずブルースがその起源にあり、そこからのバリエーションを内包していたからなのだけど、たとえば大瀧さんなどの一連の音の流れは、それよりはもっと傍流というか、もっと白人寄りというか、人種差別とは離れたところのホワイト・ポップスを源流に持っている、という気がするのね。
どうもこの辺は、まだまだ研究が足りないので、はっきりとしたことはいえないのだけれど、どうも大瀧詠一サウンドからは、ブルースは感じられない。ブルースから切り離された日本特有の切なさをそのスパイスに仕立て上げている、というのが秘訣のような気がするのだ。
さっきも云ったように、そんな匂いは感じさせなくても、すでにブルースの鬼子、孫鬼が現代の音楽界を席巻していて、コトに日本の音楽シーンは、日本の美しさから遠ざかっている。今あるそういう意味での美しさの系譜は、演歌の残骸だけに残っているだけで、ポップスではすでに死んでしまっている。
だからよけいに、未だにロンバケはまぶしいほどに美しい。
その美しさが、私の中にちゃんと刻まれていて、乗り越えられない壁として存在しているのね。私の究極の目標は、ハシヤくんはキレイな曲を作る、と紡木たくの漫画のセリフにあるように、キレイな曲である。それも前に話した通りで、そのキレイのメソッドが、私の中ではロンバケであり、大瀧詠一のメロディー・センスの中にある。
あの頃の音は、YMOなんかと同様、聴くと落ち着く、みたいなもう無条件で染みついているところがあって、もう仕方がないと諦めるしかない。それがもっともわかりやすく、私の琴線をふるわせるのが、「乱れ髪」であり、「スピーチ・バルーン」であり、「白い港」であるわけ。
ああ、以前心の師、山川健一氏におまえはロマンチストだなぁ、と云われたのだけれど、きっとその原点も、大瀧さんにあるんじゃないかという気がしてきた。そりゃ、思春期の入り口に一番寄り添っていた音楽だものね。まだ恋愛に希望や夢を抱けていた頃だもの。美しさは、大人の恋の中にもあると、信じられていたんだから。
多少強引、また、うまくまとまらないまま、大瀧詠一さんのポップス、みたいなものを語ってみたけれど、あくまでもこれは私の感覚で、多感な時期に染みついた結果にすぎない。でも、そうやって眠っていても流れ出すメロディー、みたいな感じで、音に対する感覚の一翼を担っているし、プロデューサー思考の原点でもあるし、彼自身の言葉によるノベルティー・ミュージックの中のセンスというか、頃合い塩梅、の感覚とか、無意識の中でも影響を受けていると思うのね。
そういうものはずっと私の中にあり続け、また、幸いにもそれを形にする場は一応確保している。あくまでもアマチュアだけど、エレクラは今でも一応健在中。さっきも云ったけれど、いつかキレイな曲をものしてみたいと、ずっと思い続けている。
昔未だFM香川が出来る前、かろうじて雑音混じりで受信できるFM大阪で大瀧詠一さんのラジオをやっていて、土曜日の夜8時から、毎週聴いていた。NHKでやった笛吹銅次ショーは、今でも大切に保存してある。カセットに録音してあった奴を、パソコンに取り込んでいるのだけど、そういえばその番組があったから、今自分でレコーディングしてミックスして、なんてコトが出来る、と云っても過言ではないのね。
そうやって録音して、保存しているけれど、発信元のFM局が消えてしまった、と云う感覚。何というか、もう二度と届かないんだ、これ以上ないんだ、という寂しさ。限りがあるのが人の世の理だけれど、何かがフィックスされてしまうのが、こんなに寂しいものだとは。
これからきっと、再発とか急に出回って、そういうあざとさに対する羞恥とか、そういう意味では、この記事も同じようなものだろうけれど、でも、自分でも言葉にしておかないと、きっといけない。もちろん、それはいつかの音楽につながるため。追悼番組とか、やっぱり見ちゃうんだろうな、と若干鼻白みつつ、日曜日のサンデーソングブックをチェックしてしまったりとか。
自分のことはともかく、大瀧詠一という人に対して、どんな言葉も陳腐に感じられて、思わず言葉を無くしてしまう。それほど、大きな存在だったのだし、きっと忘れるぐらいで刻みつけているぐらいがもっとも深く愛していることにつながるのかもしれない。ならば、これからも、大瀧詠一というセンスを無意識の中に閉じこめつつ、今は見送るだけ。
それしかできないのが、きっともっとも寂しいのだろうな。夢は消え、歌は残る、合掌。
なんてね、多少は気が楽になったのかも、って云ってみました。解らないけれど、今大瀧詠一さんのCDを立て続けに聴きながら更新しているんだけれど、ロンバケもいいけど、「ナイアガラ・カレンダー」もイイよ。五月雨という曲は、いろんな意味で自分にとって、エポックな曲だったんだよね、ってコトで。
それでは今日はこの辺で、ごきげんよう。