「あたし、会えない大好きな人に会いたいと思い始めると心が大騒ぎしだしてしまうから、思わないように思わないようにって努力するんだよね、だけど、心を大騒ぎさせないようにはしたいけど、大好きな人に会いたいと思わないなんて悲しすぎるじゃんね、で、結局さ、心の大騒ぎはまー、仕方ねーか、ってことに決め込んで、大泣きしながら、会えない人に会いたがるんだよね。ほんとさ、なんで人って死ぬんだろうね。もっと言うと、なんで人って生きちゃうんだろうね。」

 

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3月10日夕方。

 

マンホールの中に入って作業をしているひとたちがいて、とてもうらやましかった。楽しそうにやってたし、自分も一緒にやってみたかった。

 

果たして自分は今後のこの人生の中で、いちどでもマンホールの中に入って作業したりする機会に恵まれるのだろうか。わからない。この世界には、自分が「やったことのないまま」にして死んでいくものが、いくつくらいあるんだろう。想像するだに眩暈がするけれど、そんな中「やったことがある」ものたちとのとてつもない縁に感動するし、さらにいくつかは、繰り返し繰り返し、それをやり続けてる。あまたのものをやらない分の時間を費やして、これだと決まったものを繰り返してる。

 

そんなこと考えて、ほんの少しだけ、誇らしくなった。

 

 

。。。。

 

執筆、執筆、執筆。情けない話だけれど、そろそろ体力の限界が訪れる気がする。何せ、もう何ヶ月やっているんだろう。ようやくひとつの執筆が危機的な状況を越えた。ここから数日、追い込みだ。時間の純度と感情の振れ幅が、完成のクオリティを変えると思う。閉じこもるのもだけど、人とも会っておくのがいい気がしてる。

 

そして、新作に手をつけ始めなくっちゃだ。

 

来週からは脚本提供した『グレートフル・グレープフルーツ』の稽古も始まる。プロデューサーの阿部氏と演出の塩崎氏との3人グループラインがあるのだけど、わいわいと動いてる。

 

やってもやってもやり足りない。

ちょっとだけ、絵をプレゼントした。何に使ってくれというわけでもないのだけれど。

 

3月11日

 

2年前、3/11にパパと予定してたライブが中止になった。悔しいなー、と、パパがけっこう落ち込んだのは忘れないけど、迅速に判断して対応した父を尊敬した。「あの時やれてればなあ」とは思わない。この反動で、僕らは翌月のおぼんろ 『メル・リルルの花火』をものすごい熱量と信念で創りあげた。絶対に公演中止するしかなかろう状況にありながら、決行してやる!と心に決めて、あの手この手で公演を行った。

僕らかえって奇跡的な時間を過ごしたし、関わった全員の愛は深まった。父とも同じ家に閉じ込められながら、濃密な時間を過ごした。宝物の時間。つくづく、僕の人生には後悔がない。

やる。
実は一昨日の朝、さひがしといろいろな演劇についてのやりとりをしていて、やっぱり『ロッキー・ホラー・ショー』は偉大だよねと言い合っている流れで僕は吐きそうなほど泣いた。ロックオペラ、ロックミュージカルを創ろうね、って、パパと長年の夢だった。「拓馬が歌が上手くなったらね!」て思ってた。さすがに、パパ以外のギターでやれる心持ちになる未来は今のところ思い描けてなくって。大丈夫、大丈夫、拓馬は、ちゃんと、なんとか、すごくいいことを思いついて成功させるのです。

 

。。。。。

3月11日の記憶は人それぞれと思う。あの地震があった時、僕は自宅にいた。

 

感情は、行動のために使いたい。

過去を回顧し、他人の悲劇を知り、想像し、泣く。

 

そこで終わったら意味がない。動く。具体的に、動く。

 

思うだけじゃだめとおもう。考えられるから人間だ。
祈りは大切。でも、未来の笑顔を神頼みするなんて怠慢だ。

そもそも、地震や天災の首謀者として疑わしいランキングの相当な上位にランクインするのは神様だ。

性懲りもなく、戦争も起こってるし、病気も流行ってる。

 

悪いことが起きませんようにと祈りながら、

何かが起こった時に悲劇を少なくするための準備と、

悲劇が起こって泣いた時にも僕らが生き続けていられるような心の準備。

 

心の準備については、物語と言うものが役に立つと思う。

国連支援財団FSUNより柿沼氏をアトリエにお招きし、ジュロコロ基金について打ち合わせた。おかげさまで、昨年末に行った第一回目の募金から大きな金額が集まった。

 

カンボジアのこどもたちに井戸と学校を贈るための具体的な算段が見え、様々な目標を立てた。たくさんの人を巻き込むことになる。なるべくその人たちと直接会って、会話をしたい。カンボジア語について図書館で調べたけど、今のところ、とっかかりをつかめていない。1回目の、現地調査を兼ねた渡航についても話し合った。コロナがいろいろなことを難しくしているけど、どうにか、少しでも早く実現しようとしてる。

ジュロコロ基金は昨年末に立ち上げた。今回は、ライブハウスでの公演の収益と、チャリティグッズの販売額などをそのまますべて寄付する。母も積極的に手伝ってくれたのだけれど、母は今回僕が手渡そうとしたギャラを1円も受け取らないやってくれた。ちなみに僕に関しても、自分の収益も運営費も、募金の中から使ったりしてない。別のところで稼いだお金ですべてを賄ってる。責任持って、こどもたちに贈るからね、安心して。

 

基金についての文書はこちら

 

世界の子供達のこと、すごく調べるようになった。僕が調べてわかることなんてたかが知れてるのが悔しい。でも、調べる。で、想像する。今、どうしてんだろう、って。

ウクライナのことをどうしようかとも話した。ずっと考えているけれど、僕は、今はまだ何もしないでおこうと思っている。そこに誰かからの助けを必要としている人たちがいることは間違いなくて、胸が痛む。けれど、今は、本当に、わからないことが多すぎる。もどかしい。苦しい。

 

でも、真実がわからない以上、どちらかに荷担してしまうことへの恐怖を感じる。実際に、こう言うことは、リアルタイムだけでなくて、問題が過ぎ去ってから、長期的な支援が必要になるんだと思う。だけど、その頃には、割とみんな忘れちゃう。災害、戦争が起きた国の人たちにとって不幸や災難は一時的なブームじゃない。

僕ら、忘れないようにすべきで。同時に、今も、ずっと、気持ちを離さない、それも、大切な気がする。


『おしり筋肉痛』の稽古場。本読みをした。台本がものすごく勢いを増していて、普通にどう考えても面白くなってるじゃないか、と言うか、泰造さんのエナジーが込められていて、なんか、人の命をすりつぶして文字型にして丹念に並べたものを読んでる感覚になった。

 

それにしても「おしり」って言葉、こともの頃は大はしゃぎしてしまう言葉。一時期に入ると、なんか、言うのが恥ずかしい言葉。大人になったからって公演タイトルに組み込んじゃうなんて、すごいなあ。そう、大人の麦茶の物語はオトナっぽい。子供っぽい大人が創ってる。無邪気だし、不思議。

 

稽古場がたのしすぎて、話し続けてしまう。すこし反省。物語や人物について想像して、どうやって芝居を形にするんだろうって考えると楽しくて楽しくてたまらなくなって止まらなくなってしまう。あんまり話さないようにしようといつも気をつけるのに、結果、迷惑かけている気がする。ああ、もっと話したい。

今日、みほちゃんと言う俳優さんとは初めて会った。おぼんろのことを知っている中華屋さんと仲良しらしい。この現場の人たちのコミュニケーション能力の高さ?人間の良さ?がズバ抜けていて驚くんだけど、みほちゃんも、一瞬で仲間だよと思わせてくれるすごい強くて柔らかい人。強くて柔らかい人と出会うと、嬉しくなる。

 

みんなにカップラーメンをあげようと思って、表紙に落書きをしたんだけど、うっかり時間を忘れて、稽古に遅刻した。落ち込む。

 

ありひろくんと言うのがいるんだけど、写真を撮ろうと言ってくれて撮った。人生で初めての、ありひろくんとのツーショット。稽古が終わってからLINEがきた。うっかり保存し忘れたからまた撮って!って。きた。かっこいいし頭いいしなんだけど、隙があって、いい。かっこいい。

 

最年少のリコって子がいるんだけど、まだ高校に通っていて、演劇部でもあるって。「あれ、よかったです」って時に、親指を突き出す「グー!」って言うハンドサインをしてくれたんだけど、これは、古いものなんじゃないんだろうか。時代が一周したんだろうか。

 

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ブログを書いていたら、おすすめ記事みたいなのがあって、『登坂淳一娘を抱いてスクワット』と言う記事だった。淳一さん、元気だろうか。終わってから配信を見たらしく、わざわざ「いい公演だったよね」と言う内容の連絡をくれた。落ち着いたら淳一さんの家に遊びに行く約束をしてる。ジュンバのセリフ、まだ喋れるかな。多分、明日いきなし集合してもまだみんなギリギリ上演できる気がしてる。

 

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ええと、あとなんだっけ。って、いろいろ、言い忘れたこともある気がするけど、今夜はまだまだ描かねばならないものたちがある。仕事に戻ります。

おやすみなさい。

今日も一日本当にお疲れ様でした。いろいろあったよね、ありましたよね。
そんなこんなも全部丸ごとひっくるめて、よかったことにしちゃうのです

あー、ほんと、今もあなたが生きていてよかった

本当によかった

 

 

あなたが幸せでありますように

 

少なくとも僕は、願ってます

 

おやすみなさい