ふ「まるで完熟マンゴー」ていうアイスがあって、たぶんきっとすごく美味しいのだろうけど、なんか、名前、気になってしまう。
「まるで」て。完熟マンゴーそのものじゃないんだね、そりゃそうだよね、アイスだもんね。尊敬してるのかなあ、マンゴーのこと。マンゴーの中でも完熟してるやつのこと、心底尊敬してるんだろうなあ。でも、マンゴーアイスは、マンゴーアイスというひとつの存在で、マンゴーに近づくことを目標にしなくていいと思うんだよね。「自分はマンゴーじゃない、アイスだ!」て突っぱねる必要もないと思うだけど、「ほとんどマンゴーです!」て、卑屈な態度を取らなくてもいいのにな。
自分を誇れよ。ぜんぶごちゃまぜで、曖昧な部分あるのが、自分。いろいろ混ざってるのが、あなたの純度なのよ。
「こんな安さで、ほとんど完熟マンゴーなんですよ僕!」て、さ、アイスよ。たった一回の自分だよ。あなたはあなたよ。
て、そこまで考えて、あ、違うんだ、てかんがえた。「まるで完熟マンゴー」は、たった一度からの自分を、完熟したマンゴーを全身全霊で信じて崇拝することに、捧げたんだな。僕らにはできないほどにそれは、崇高で、高潔な生き方だ。
すごいな。
美味しく食べられなね。うっかり、食べられる前に溶けてしまったりしたらいかんからね。
バイバイ。
セブンイレブンの、北欧の冬を閉じ込めたようなケースの前で、ガラス越しにアイスと過ごした時間。
。。。。。。。
台所に行ったら母が泣きながら笑ってた。笑いながら泣いてたのかもわかんない。
父の机の引き出しの奥から、ビニールに入れて大切に保管された大入り袋がでてきたそうだ。大入り袋ってのは、芝居の風習で、千秋楽に参加してくれたスタッフやキャストに向けて配る小さなポチ袋。中に5円玉を入れて、「おかげで成功しました!」って気持ちと共に、渡す。
初めて芝居を創ったときからの、袋たち。手紙を書きこんで渡したのもあった。父は打ち上げに参加しないことがほとんどで、大入り袋は持ち帰って渡した。流石に、公演後のどんちゃん騒ぎに親がいるのは気まずい、というか、あんまり、そこに父を呼ぶ発想が20代の頃はなかった。ここ数年は、父を打ち上げに呼んだりするようになった。もっと前からそうしてたらなあ、て思う。でも、何度か体験した、打ち上げで父の隣にいた時間は、宝物になってる。
僕ら劇団員一同、芝居創れたらいいなという性格で、打ち上げも大入りもあまりこだわらないほうだったけれど、ちがうんだな、未来に、意味が生まれるんだな。
8月17日、リュズタン千穐楽、時期が時期なので打ち上げはやれないけれど、大入り袋は用意しよう。
打ち上げ、家で父とビールあけるくらいは、いいね、きっと。許してね。
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「夏休み、おぼんろに集中」とテレビが言ったから驚いたけど、ちがった。お盆だった。
集中して。
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宝物を見てゴミと思ってしまう人もいれば、ゴミをみて宝物と思えてしまう人もいる。
宝探しをしたいなら、宝の姿は決めてかかっちゃいけない。これは宝じゃない。思っている宝とは違う、そう思うと、見つからない。
この世界に宝物はある。でも、どんなものかはわからない、そう思って、何を見ても、「これは宝物かな?宝物かもしれない!」と思って生きるのがいい。
宝物じゃないものなんて、世界にない。
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