昨晩、家族から発表しましたが、7月4日の夜、父・末原康志が亡くなりました。

出演していた『黒と白』千穐楽の夜です。



すごく、すごく書きたいことが、あるに決まっていて、できれば、生まれて中でもとりわけ一番美しい文章で、言葉で、父のことについて書きたいのだけれど、それは、生涯かけてやっていけばいいのだ、と言う思いもあって。本当のことを言うと、まだ心が何もよくわかっていないと言うのが正直なところです。

 

 

 

なので、とにかく、急いで伝えたいことがあるので、まずは、そのことを書かせてください。

 

 

7月7日、父のお別れ会を開催します。

 

 

父、末原康志は、ロックギターリストでした。生まれてこの方、ずっと僕の父親は現役のギターリストで、音楽で家族を養ってくれました。名だたる有名アーティストと共に活動し続け、僕が成人してからは、僕の主宰する劇団おぼんろ の舞台で使うサウンドトラックを手掛けてくれ続けました。近年では、2人でライブや公演をやることもあり、世界で一人だけ、「パパ」としか言いようのない存在でした。

 

 

 

食道癌が判明したのは、昨年の7月。そこからの闘病生活は大変なものでした。入退院を繰り返し、光が見えたかと思えば闇に飲まれて、それを光で吹っ飛ばしたと思ったら、また追いかけてこられて。でも、最終的に僕らは勝利したように思っています。この一年のことを、ひとつも後悔しないし、否定しない。父の体力が許す限り、ずっと父と作品創りをしました。生まれてこの方ずっと一緒に住んでいる僕らは、きっと本当に仲良くて、だけれど、別に、ストレートに愛情を表現し合うなんてこともなくて、ただただ、一緒に遊ぶ、物心ついた時からやっていることを、最後の最後まで続けた、そう言う関係でした。

 

 

昨晩、父の訃報を家族から発表しました。それから、Twitterで「末原」と検索すると、父のギターリストとして過ごした数十年の間の仲間やファンの方、お弟子の方々の言葉がズラーと立ち並び、ただただ、幸せで、父を尊敬するばかりです。

 

 

今年に入るなりずっと入院していて、コロナの影響もあって親族すら面会もできず、けれど僕らはめげずに遊び続けました。テレビ電話を駆使して、楽器を病室に運び込んで、新しいノートパソコンをプレゼントして、父は、元気のある時には作曲をして音源を送ってくれました。

 

だけれども3月末に、いよいよ「あと1週間」と宣告され、せめて最後は自宅でと、退院をしてきました。最初は起き上がることも喋ることも、何かを口に入れることもできぬ状態だったのですが、僕が4月に演出していた『純情ロマンチカ』の舞台のサントラを無理矢理に依頼すると、ヨタヨタと命がけで起き上がってギターを弾き始めました。すると、どう言うことなのか、本当にどう言うことなのか、本当に、わからないのだけれど、少しずつ、元気になって。ベランダで風に当たることができるようになって、ほんの少し、散歩に出ることができるようになって。

 

8月におぼんろの新作がある旨を話して、僕らは盛り上がりました。昨年『メル・リルルの花火』から引き続きホリプロ・インターナショナルと、『ラルスコット・ギグの動物園』でお世話になった講談社、その両方の会社がおぼんろ を支えてくれることに、父は大喜びしてくれました。「今回は話のテーマはまだ決まってないから、先に音楽創ってよ。それをもとに物語を創る」と話しました。そしたら、ものすごく、信じられないくらいに明るい音楽を、父は創ったのです。肉体的にはどう考えても絶望の淵にあるはずだし、恐怖の最中にあるはずなのに。この頃、僕の心の中にも、たくさんの暗いものがありました。それを全てぶつけた作品を描いてやるくらいに思っていたのだけれど、父が、そうはさせなかった。「明るいのがいい。今までのおぼんろ とは一味違う、夏みたいのがいい。海がいい。」と父は言いました。冬っぽくて暗くて切ないのが息子の作風だと言うのに。

 

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6月に入るころに、父の体調は再び崩れ始めました。僕は『黒と白』の稽古に入る頃で、他にもたくさんの仕事が重なっていて、同時に、父とも、物を創りたくて。

 

父の体調は日に日に悪化しだし、6月27日、ついには「今夜か明日にも。会いたい人を呼んでおいた方がいい」と診断されました。僕は最終稽古日にも関わらず、稽古終わりまでいることなく、走って帰宅しました。現場でわがままを聞いてくれたみなさんに感謝します。

 

後悔をしました。絶対にダメなのだけれど、後悔をしました。

 

この時期に舞台の仕事を入れたことをです。小さい頃、人の命には限りがあると言うことを知った日の夜、怖くて怖くて頭がおかしくなった。パパとママとお別れをする瞬間が、いつか絶対に絶対に待ち受けていると考えたら、もう今すぐ人生を終えたい、そう思った。布団をかぶって震えたことを覚えています。それから、僕の人生は、恐怖とともにありました。誰かとの幸福を感じれば感じるほど、それが終わるいつかのことを想像しては強烈な不安に襲われるようになりました。

 

どうか、最愛の人の死に目にはあいたい、と考えるようになりました。「夜中に爪を切ると親の死に目にあえない」と言う迷信がありますが、僕は、物心ついてこの迷信を聞いてから、一度も、夜中に爪を切ったことがありません。

 

俳優を始めるときに、両親と約束させられたことがあります。それは、「親の死目に会えると思うな」と言うことでした。ステージが決まっているなら、例えパパとママが危篤になっても、しっかりと仕事を勤めあげてくること。それが、僕がこの世界で生きていきたいと言った時の、親から言われた唯一の条件でした。僕は、本当に心が弱い人間なので、そんなの嫌だ、と心から思いながら、でも同時に、何があろうと仕事だけは絶対に落とさない父の生き方にとてつもなく憧れ、尊敬をしていました。そう言う父でした。何があろうと、どんなことが起きようと、仕事だけは、やる。父は、「一流であれ」と言うことを、何度も何度も、いろいろな方法で伝えてくれました。

 

劇場入りの日、僕は絶望しました。息も絶え絶えの父を置いて、朝から晩まで家から離れた劇場にいることは、恐怖でしかありませんでした。舞台が終わるのは7月4日、1週間も、家にほとんどいられない。

 

行きたくない。どうして、この時期に舞台を引き受けてしまったんだ。いつ何が起きてもおかしくないと警戒していたはずなのに、どうして、どうして。

 

出発しなければならない時間なのに、家でぐずぐずしていると、母がやってきて言いました。

「ないとは思うけど、後悔なんてするのは違うからね。パパは、あんたが一流として勤め上げることを、一番願ってるんだからね。」

 

わかってはいることです。父は、中途半端なパフォーマンスやクリエイティヴを本当に軽蔑する。僕は、泣きながら家を出ました。

 

俳優の仕事は、集中力がものを言います。思考にノイズが入れば、それだけ、クオリティが落ちる。いい芝居をするためには、本当に、物語の外の世界のことは全て忘れなければならない。僕は少なくとも、そうやって芝居をしています。物語の世界を完全に信じ込む、そこに、魔法が宿ると信じています。現実世界で何が起きていようと、板の上では、すべてを忘れるべきl。

 

忘れたくありませんでした。ずっとずっと、父のことを考えて、祈っていたかった。劇場入りして最初の数時間は、「もしかしたらこの瞬間に」と言う恐怖に襲われながら、舞台袖でずっとうずくまりながら、泣いていました。けれどやがて僕は、父の姿を、父のステージ上で演奏する姿を、スタジオでレコーディングに参加する姿を思い浮かべ始めました。

 

父ならどうするか。父は今、自分に、どうしろと言うか。

明白でした。

 

「生半可な芝居をするなら、馬鹿野郎だ」

 

そう思うようになりました。「命懸け」と言う言葉があるけれど、文字通り、命懸け。いつ何が起こるかわからない。それでも後悔しないくらいの、演技を。劇場入りしてから千秋楽までの数日間、僕は自分がマルートと言う天使になっている間中、全神経を物語に傾け続けました。最初は、父を忘れ物語に熱中する自分への嫌悪感もなかったといえば嘘になります。けれど、僕は、僕と父がかっこいいと思える僕らになりたかった。

 

1日目が終わり、2日目が終わり、毎日、帰宅しても、父は生きていました。主治医の先生は科学的、医学的にありえないことだと驚いていました。父は日に日に意識も弱まってきて、うわ言を言うようになりました。それでも「行ってくるね」と言うと、小さく返事をしてくれました。一日中眠っていても「ただいま」と言うと、ほんの数秒でも、目を覚ましてくれました。次第に会話もできなくなると、「行ってくる。ちゃんと伝わってるみたいだよ、拓馬がやってるマルート。大きい劇場だよ、すごいよ。ストーンズとエアロ観に行った東京ドームの脇で、拓馬は観客に見守られて天使やってるよ」なんてこと報告すると、手を動かしてくれたりしました。毎日、帰ってもちゃんと生きていてくれるので、僕は次第に恐怖を感じなくなりました。大丈夫、大丈夫、そう思って、集中力は日に日に高まっていったように思います。実際、父がいなくなると言うことは、考えはするけれど、想像もつかなかったのです。

 

ついに、僕は千穐楽を迎えました。僕はとっくに役に呑み込まれていて、全力で駆け抜けることができました。今の自分にできる最高の芝居をやったと胸を張ります。

 

千穐楽のカーテンコールでは涙があふれました。僕なんて、もうとっくに新人じゃありません。カーテンコールで感極まって涙ぐむなんて、一体全体、なんだろう。僕は、本番を勤め上げた達成感と、肉体と精神を酷使した疲労感で、フラフラしながら楽屋に戻ってきました。ウィッグを外し、衣装を脱いで私服に着替え、スマホを見ると、母から連絡が入っていました。

 

「連絡してください」

 

走って劇場の人気のないところへ行き電話をかけると、「父がたった今さっき危篤に陥った」と母が教えてくれました。不思議なことですし、僕がそう、こじつけているのかもしれないのですが、おそらく、千穐楽のカーテンコールで挨拶をしたのと、父が危篤になったのは、ほぼ同時刻でした。

 

僕は大慌てで荷物を取りまとめ、スタッフや共演者への挨拶もそこそこに、走って帰りました。まだ劇場外の横断ほどにも電車にも、ご観劇いただいた皆さんがいて、隣で「ハルマルは・・・!」なんて会話を皆さんがしているのを聞きながら、帽子を目深にかぶり、マスク目のギリギリまで上げて、ガタンゴトン帰りました。途中からタクシーに乗り、そして帰宅しました。

 

父は、まだ生きていました。意識もなく、かろうじて息をしている状態でしたが、こんなとき、耳だけは聞こえているものなんだ、と、事前にこっそり調べていた情報を完全に信じ込むことにして僕は、公演が大成功だったことを、伝えました。拍手がすごかったこと、収録日だったけど、うまくいったこと、ブロマイドが売り切れたこと、みんなが、続編のことを期待してくれているらしいこと、それから、共演者がみんなでおぼんろ を観にきてくれると予約をしてくれたこと、Twitterに貼り付けたおぼんろのテーマ曲がものすごく評判がいいこと、話しても話してもなりないくらいの自慢話を耳元で捲し立てました。パパと二人で手に入れた宝物を、山分けするような気持ちでした。やがて、姉も大慌てで仕事を切り上げて帰宅し、僕ら家族は、1時間以上もの間、穏やかに幸せに会話をしました。手を握って、体をさすり、父のCDアルバムや、家族で子供の頃からよく聞いていたCDをかけて。息を引き取る瞬間、僕らは全員、そばにいました。完璧でした。寂しくて仕方がないし、どうしようもない気持ちだけれど、でも、僕らの勝利です。残酷な運命も、僕らを不幸になんか、一切できませんでした。

 

7月4日の公演終了のブログは、その後に書きました。観客への礼儀を一番大切にするべき、父がそう言うことは明白だったので、僕は、自分が出演させていただいた舞台に心から感謝し、そして胸を張り、みなさんに言葉を贈らせていただきました。

 

改めて主治医の先生が、父がここまで生きながらえたことを「人智を超えている」と表現されました。父が、カーテンコールの瞬間まで無事でいたおかげで、僕は集中力を持って作品に没頭できた。父と二人で闘った、誇らしいです。

 

父の訃報は翌日にさせていただきましたが、ファンのみなさんや、観客のみなさんにご心配をかけてしまったのではと思い、あまりに身内ごとではありますが、書かせていただきました。それと、すみません、父のかっこよさを自慢したい気持ちも、あります。

 

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【末原康志お別れ会】

 

家族や父のミュージシャン仲間と話し合った結果、音楽の鳴り響く、華やかな夜にしようと決めました。

 


人の笑顔が本当に大好きなひとでした。父と会ったことのある方はもちろん、そうでない方も、舞台サウンドトラックなどでのファンの方も、僕の友人も、ぜひ、どなたでもお越し頂けたら幸いです。本当に、まったく、父のことも僕のことも知らなくてもいいくらいです。むしろ、ここで父を知ってください。ここから先、父は、みなさんの記憶の中で生きていくのです。たくさんの記憶の中で生きていて欲しい。

 


当日は会場内に父の音楽や映像を流し続ける予定です。服装も、どうか畏まらず、ライブを見にいくような華やかな物をお召しになってくだされば幸いです。父は、そう言うのを喜びます。

 

父のコロナ禍の闘病は孤独でした。「公表すればみんな応援してくれるし会いにくるよ」と何度も言ったけれど、父は頑なに拒み続けました。ロックンローラーとして、最強の状態しか人にみせたくないという考えのひとでした。人に心配をかけることや、悲しい気持ちを抱かせることが嫌いなのです。本当は、誰かから連絡が来れば一日上機嫌になるほど、人が好きなのに。

 

崇高な人だったと思います。自分の仕事への厳しさ、音楽、生き方への理想、他人への無尽蔵に溢れる優しさ。父として、表現者として、人間として、この世の誰よりも尊敬しています。

 

明日、ご都合ついて会いにいらしていただければ幸いですし、もしもそれが難しいと言う方も、ふと、父のことを思い出していただければ幸いです。父の創った音楽、奏でた音色は永遠に残ります。これからもきっと僕らの毎日を輝かしく照らしてくれることでしょう。僕は息子として、これからも父の音楽を大切に守り、人々に届けることを続けていきます。

 

また、父は花が大好きでした。闘病中もSNSに花の写真をアップし続け、健康なフリをしていました。「花の写真撮って送って」と、僕ら家族は父の優しい嘘の片棒を担がされたものでした。誇らしい思いでいっぱいです。

 

お別れ会では、みなさまからのご供花を受け付けています。葬儀屋さんと担当のお花屋さん(この方が偶然にロックをこやなく愛する方だったのです)が父のロック魂に共感してくださり、いわゆる仏花などではなく、明るい色とりどりの花を飾っていくことにしました。

 

もし父にお花を贈ってくださる方がいらっしゃいましたら、こちらへご連絡いただければと思います。そのほか、葬儀に関するお問い合わせなども、こちらへよろしくお願いします。

株式会社日典

0422-26-1591

 

 

気持ちがまとまらないから、詳しいことは後日にして、とりあえず、明日のお別れ会の告知だけをしようと思って文字を連ね始めたのに、こんなに長くなってしまいました。これからも、何度も話し直すかもしれません。きっと、生涯、僕がこの世界からいなくなるまで、父の話をし続けると思います。それは、許してください。大好きなんです、父のことが。

 

 

 

追伸:

おぼんろ 新作公演『瓶詰めの海は寝室でリュズタンの夢をうたった』の楽曲は、父が遺してくれました。ここでめげたら僕はとんでもない馬鹿野郎です。最高傑作にして見せますので、どうかどうか、どうか、遊びに来てください。僕らからみなさんへの、贈り物です。