本日『えんとつ町のプペル』初日!!

 

今夜、舞台『えんとつ町のプペル』が開幕する。

脚本と音楽で参加した。

 

「公演初日の脚本家はソワソワ落ち着かない」と相場が決まってるけど、他聞にもれず、ソワついてる。でも、恐怖や不安というよりは、サプライズパーティーを仕掛けている子供めいた心持ち。観客のみんながどんなにか喜ぶだろうと想像しては、落ち着かない。

 

脚本家は脚本を提出してしまったらば、もはや成す術がなく、あとは現場を信じて祈るのみ。誰かを信じるというのは、とても素敵なことだ。今晩プペルが開幕するその時間、僕自身はちょうど同じ頃シアターサンモールの舞台の上にいるので、なんか、遠くで共に戦う心持ち。

小細工無用、真っ向勝負の演劇作品として届ける

 

いろんな事情あり、昨年、急遽脚本を担当することになったこの作品。元は絵本なのだが、それを2時間の演劇作品にするということで、セリフも設定も場面展開もテーマも、ほとんどオリジナル作品みたいなことになってる。芥川が「桃太郎」を小説家したり、太宰が「カチカチ山」を小説家したりしたように、末原拓馬は末原拓馬なりに「えんとつ町のプペル」を戯曲化してみようと思った。

 

上演場所は王子にあるベースメントモンスター。我々おぼんろからすると馴染みの場所だ。昨年は『かげつみのツミ』という作品で、「同時多発式に物語が紡がれる建物内を、参加者が歩き回りながら物語に参加する」という実験的な公演を成功させた。

 

今回もそういう趣向を凝らすか?という話し合いを演出のわかばやしめぐみと行ったが、真っ向勝負、小細工無用の演劇作品で闘おうぜ、ということになった。言葉と想像力を信じてやってきた我々の選択だ。あれだけ美しい絵柄で絵本化された世界を再現するには、最高の選択だったと思っている。

 

『かげつみのツミ』をやっておきながら自分で言うのもなんだが、本当の「参加型」の物語というのは、観客の心の中で行われる。物語を誠実に本気で贈ることによって、それぞれの参加者がそれぞれの心で物語を自分のものにしてほしい。主人公とともに現実から切り離した世界を旅して生きてもらうことで、劇場の外に出てからの人生が変わる、そんな体験をしてもらえたら幸せだ。

 

全くもって、観客に媚びたり、顔色を伺ったりしないで物語を紡いだ。

そんな自分たちに誇りを胸に抱いている。

 

乗りかかった船から飛び降りたら死んじゃうもんね

今年は再演ということだし、スケジュールも残酷なほどに埋まっていたので、脚本に関して末原は手を加えなくていい、と言ってもらっていたのだけれど、聞いてみたら演出上とても大きな変更があり、言葉を喋らなかった役が喋るようになったり、出演人数が変わったり色々あるということ。「気になるところを箇条書きにしてくれたら現場で脚色する」と気遣ってくれたものの、脚本全ての張り巡らした緻密な設計図を全て説明することは不可能だと思い、結局、自分で手を加えさせてもらった。乗りかかった船。船から途中で降りると海原で溺れ死んでしまうからね、乗ったからには全力で漕ぐぞ、と、そういう感じやね。それに、作品は我が子。責任を持ちたい。

 

脚本を描くときにはいつも病的なほど完璧主義者になって、徹底的にこだわる。ひとつの言葉のチョイスに一日悩み込むこともあるし、シーンとシーンのリズム感だとか、会話も、たった一つのやりとりすらお気に入りの名場面になっていないと気が済まない。完璧でないことが許せない。もちろん、「完璧」の定義はひとそれぞれだけれど、僕に関しては、僕の感覚を絶対的に信頼している。

 

非現実的な世界だからこそ、生身にこだわる

 

僕は100年語り注がれる戯曲を描こう思って演劇に携わり続けてきたので、他団体からの依頼だろうと原作があろうと、自分の信念に従った。ちっとも子供向けに書いていないし、2.5次元的に、原作の再現に重きを置くこともしていない。ファンタジーというよりはアングラに近いような、古典演劇に近いような、異様な世界観。「ファンタジーだからみんな幸せになれた」という物語を描きたくなかった。あくまで生身の人間たちが息衝き、悩み、戦い、成長する、そういう物語を紡ぐために全力を注いだ。

 

そのため、長い台詞も多いし、俳優がちゃんと物語を理解して役作りをして稽古しないと物語が成立しないという、役者泣かせな戯曲に仕上がった。しかし、稽古を観に行ったところ、俳優たちも素晴らしかった。十分に強い作品になったはずだ。観客とて心を働かせて、少々疲れるやも知れない作品だが、そのぶん、宝物になってくれるだろう。そう願ってる。

 

自分でもいつ死ぬかわからないなと思う今日この頃だし、演劇の神様と個人契約を交わしている身としては、とにかく、自分の感性だけは裏切らないようにと全精力を注いだ。

 

新曲にもこだわった。

新たに劇中歌を2曲追加することになり、これには、まあ、時間をかけた。顔合わせの時にプロデューサーのキムラ真氏から「拓馬なら今ボイスレコーダー渡したら即興で曲吹き込めるでしょ?」と言われたけれど、実は、それは無理。僕は即興で作品を創るのは得意なのだけれど、即興をつなぎ合わせても名作は生まれない。本編中に存在する全てのものは緻密に作用しあっていなければならないと僕は考えていて、しかも、ミュージカルではなくこういった歌劇に入ってくる数少ない歌には、相当な意味と必然性がないといけない。だから、物語全体のエネルギーの流れや、公演そのものに宿るメッセージなどを全て自分の中に落とし込んだ後で、詩とメロディを産み出さないといけない。なんというか、ちゃんと手順を踏んで身ごもってから産むのでないといけない。そして動物が動物を生むように、自分の心から別の心を産み出す間は、身動きができなくなったりする。大変だったぜい。だがしかし、おかげでものすごく気に入った曲ができた。『僕のオバケを悼む歌』と『へっぽこたちの革命歌』という2曲。前者はアレンジを末原康志に依頼した。後者のピアノインストの演奏は、友人のシモシュに依頼した。その他、劇中で疲れている音楽は、自分で作曲、演奏、編曲。こんなことは書かなくてもいいのだけれど、でも、心を込めて創ったから、どうかお楽しみくださいという心持ちです。

 

僕のオバケを悼む歌

              作詞・作曲 末原拓馬

 

誰にも見つからないように こっそり目を瞑リました

こっそり目を瞑るたび、私は透きとおって行きました

すけてく心を見ないふりして 耳も塞いで笑いました

耳を塞いで笑ううち 私の心は生き絶えた

 

死なしてしまった私の心も晴れてオバケとなりました

私のオバケがうらめしそうに、私に取り憑き呪うのです

信じてあげればよかったのにな  オバケになった私の心

救ってあげればよかったのにな 大切だった私の心

 

笑顔の街に鳴き声響く

私は笑いながら泣く

 

愛する君よ教えておくれ

前が見えないのは煙のせい?

愛する君よ教えておくれ

涙止まらぬのは煙のせい?

愛する君よ教えておくれ

笑っているのに悲しい訳を

愛する君よ教えてくれ

君のために歌う歌を

どうか、たくさんの皆様にとって、幸福な公演となりますように。

ご覧になった方々、あとで感想などお聞かせいただけたら幸いです。