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誤解を受けて生きてきた。


思っていないことを想っているだろうといわれたら、

たとえ恋人同士であろうが思っていることを見せられないのと同様に、

思っていないものを思っていないと証明するすべはなく、


むしろ否定は言葉にすればするほどに逆効果なのは周知の事実で、

とどのつまり、魔女狩りに似たような話で、

疑われたら最後、受け入れるしかない。


魂が理解されなければ、それは自分のせいでもある。

もちろん、観る側が何色のメガネでこちらを見つめているのかにもよる。


そんなもの、気にしても仕方がない、

まさしく、ただただそれだけだ。


我々ができることは、どんなときでも決まっている。


倒れるギリギリまで肉体を追い込んで鍛え上げ、

数々の方法を学び、その反復と実践で技術を磨く。

なるべく多くの書物を読み、

なるべく多くのことを体験し、

狂気の寸前まで近づいて、自らの内面と向き合い続ける。

それらを作品と言う形で昇華するために、

ただただすべてを投げ打って時間を費やす。



明るい作業でも決してない。



我々はこの存在のすべてを、私利私欲のためでは一切なく、

どうにか紡ぐことのできるすべての我々の物語に捧げる、

そういった表現者であり続けることを誓う。


それは、表現者だからだ。

食肉牛つぃて生まれたら、自らの肉を切り刻まれて食われる他はない。

同じだ。

舞台上から客席に何も伝えることができなかったのであれば、

それは、牛で言うならば無駄死にをしたのと変わらない。

表現者として生きる以上、全身全霊で作品を創る他にはない。


何度でも何十年でも自分の立ち位置を疑い努力を怠らない。

そして、

どんな逆境にあろうとも、自分の感性を全力で信じる。


それがどんなに過酷なことか、

べつに大きな声で吹聴することでもないし、

わかってもらう必要もないと思う。

ただ、他人からとやかく言われるほど、ちゃらんぽらんには考えていない。

その誤解さえ楽しいけれど、

その誤解のせいで、作品を不当に評価されるのはやり切れない。


何を言われようと、

我々には、信念がある。

それをいぶかしいものだと疑おうとするならば、無駄だ、

命を懸けて守ろうと考え抜いた美学に基づいている。


気に食わないならば、それは我々が間違っているからではない。

わざわざ疑おうとするからか、

もしくは好みに合わないのかだ。



もしくは、いまは実力が足りないのだろう。

そうおもうと、ただただ悔しく思うのだ。



「敵もできるぞ。」

闘いたいと話した時に、仲間はそう忠告してくれた。

それでも、どうしても成し遂げたいことがある、

そう伝えた。


雲と月が完璧な夜だ。

ちょっと饒舌になってしまった。いつものことだけれど。