別に余命を勧告されたわけでもないのだけれど。
いい考え方だなぁとは思うにせよ、“明日死ぬ”という確信を持って生きているわけではない。
ようするに、なんとなく続いていく気がするし、
歳をとることには漠然とした不安はあるけれど、芥川ほどのアレではなく、
「だったらまぁ、それなりに」と嘯くくらいには覚悟はできている。
だけど、あぁ、なんじゃらほい。
この焦る気持ちはなんじゃらほい。
ヤリタイコト尽くしで、テンパる。
時間がない!と叫んでいるうちに一日は過ぎてゆく。
小学校のときから、運動神経がよかった(逆上がりができなかったけど)。
授業参観の日に体育でハンドベース、って手でボールを打つ野球もどきをやらされたのだけど、
負けたくなくてねぇ、なんとなく。
なんでだろね。
勝ちたかったんだなぁ。
あたしゃ一人で打ってひとりで走ってベース一周して得点して、
守備も一人で投げて一人で走って打たれた球拾いにいって走って一人でベース踏んで、アウト、アウトアウト!
で、勝ち続けたのよね。わーいわーい。
そしたら誰かのパパが、
「ひとりじゃん・・・」てつぶやいたのよね。参観日の、親。
それであたしは、“子供に聞こえないようにいえよ、親・・・・”とおもったのでしたけれども、
随分と、なぜか哀しい気持ちになったというか落ち込みましてね、幼心で。
以来、“協力と言うのは協力のためにしなければならないのだ”、
という偏屈なねじれを頭の中に創り上げたのだけれど、
あんまり得意ではなく。
だってチームにとっては勝つほうが大事だとおもうし、そのために身を削るのはぜんぜんやるよ!
と俺は思う派なのである。むしろ献身なのである。
過程が大事なんてのは結果に直結するからであって、
過程自体に意味を求めるのは卒業アルバム制作だけで十分である。
とそんなオレも最近はすっかり丸くなっていて、
劇団の長としても、協力しよう!と仕事の割り振りなんかにがんばっていたけれど、
ごめん、やっぱ違うとおもった。
だいじょうぶ、チームプレイ出身です、それにわざわざ選択して劇団をやりたい身です、
ですが、
やっぱり感性と言うのはこの胸にある。
そのエゴを消したらば、それは歴史にとって無意味な表現になると、強くおもう。
なんでこんな話をしたのかと言うと、今一度本気でいろいろ自分の能力を洗い出してるのです。
なので、ようするに、時間があっという間に過ぎるというわけ。
ならば、「あっ」だなんていわなければいい。
ラァッ!!