天才と呼ばれる映画監督の映画を見たら、ちゃんと本当に天才的で、けっこう大いにヘコんだ。


でも、“底が知れる”というのは安心感がある。

ここを越えれば確実に勝ちだ、みたいな、こう、ようするにゴールがわかっていると、人間てのはぜんぜんラクにパフォーマンスができる。

初めて行く場所にたどり着くまでの、あの無限にも感じられる長い時間感覚、アインシュタインもギョギョギョであるが、同じ距離でも、知っている場所ならちっとも遠く感じない。

バイトだっていい例だ。

初出勤の日にはゴルゴダの丘を登る気持ちになるが、仕事に慣れればただのルーティーン、苦にならない。


底なし沼はドコに続いている?マグマ?ブラジル?

行き着く先があったらいけない、底なし沼に底は無し。

「あー、ソコソコ」て、背中かいてもらってるんじゃないんだから。


宇宙が始まる前の、“無”。

“なにもない”という概念さえ、“無い”のである。


こういうパラドクシカルな議論は妙に吐き気を伴う。コンラン。がぅがぅ。

だが、案外と、そういうドードーめぐりな事態ってのはないようで、よくある

ドウドウ。

・・・・・・馬でも落ち着かせる気ですか?とおもいきや、

ドードーなんてのは、アレだ。小突いたときのリアクションがおもしろいからっつって絶滅させられた鳥である。誰もが小突いて小突いて、気付いたら一匹残らず小突いてしまったのである。

殺されるほどおもしろいリアクション!その芸によって身を滅ぼすだなんて、案外、芸人冥利に尽きるのではなかろうか。て、ドードーは芸人じゃないから!


わぁ。

まただ。

脈絡のない文章がさらに飛躍して、なんだか悲惨なことになったいる。

ごった煮な朝です。おはよう。


とにかく、おもったのはね、

これまでその「絶対にみといたほうがいいよ」の映画を俺はみたことがなかったのだけど、昨日、みてみたわけなんだけど、「このひとに影響を受けている人がたくさんいるな!」というのがわかったわけ。

で、俺はこれまでその人たちのつくった天才もどきのレプリカをみて、「ギュンギュンな発想だなぁ」と思ってたわけ、でも元ネタは天才が作り出したものなわけ。

あんがい、あったわけよ、底が、この世の中に。


ザマーミロだ。


「新しいもの」なんてもうこの世にはないのかも知れない。

「秘境が開拓されつくしている、僕らは不幸だ!」と映画の中でのび太が嘆いたことがあるが、それはいかんともしがたくビンゴなリアルかもだ。

でもでもだ、やっぱり、“自分が思いついたもの”であれば、二番煎じだろうが三千番煎じだろうが、根っこがある分、しっかり強度はある。


そう信じて、僕ぁ、自分に耳を傾けてみる。


それで創ったもんがつまらなかったなら、エンリョはいらん、ミジンもいらん、力いっぱい小突いてみるがいい。

絶滅するほど面白い転び方をして差し上げるのことよ。


転んで転んで、転げ落ちて、下に下に転げ落ちます。

マグマも越えて、ブラジルも突っ切って。

その転び方は、少なくとも底知れないほど俺らしい俺自身のものでしょう。


どうかな、どうどう?

ラクじゃなくてかまわんまん、さぁ、レッツハイキング。

フッキンもするし、ハイキンもしよう。

ゴルゴダ登りでハイになろう。


どうかな、どうどう?どうかな。