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いつもこの志波城跡の前を通っているけど、
「巨大な門と塀があるなぁ」ぐらいで、特に関心もなかった。(笑)
ところが今年の春に それまでプレハブだった案内所が新しくオープン。
駐車場も整備されて見る見る綺麗になったので、いつか行ってみたいと思うように。
ついに、今日、行って来た。 (≧∀≦)b

まずはこのガイダンス施設でパンフレットをいただき、
展示物から 志波城と古代東北の歴史についての情報をゲット。
何も知らないで現地を歩いても ピンと来ないだろうから、これはいいね。
特に15分の歴史ドキュメンタリービデオ「志波城物語」はわかりやすかった。

即席に古代東北の状況を頭に入れて、想いは1200年前に。
志波城というのは東北の蝦夷を抑える拠点として建てられた役所のこと。
平安初期の803年に坂上田村麻呂によって建てられたそうな。
志和城の外郭は、928メートルの外溝、一辺840メートルの築地塀で囲まれ、
そのうちの南側の塀が復元されている。
復元された古代の門 外郭南門

外郭南門をくぐると 南大路の右側に竪穴建物が復元されていた。
これは当時、駐屯していた政府軍(関東から徴兵された人々)の兵舎。
カヤで葺いた建物は残念ながら 雪囲いされていて見ることは出来なかったけど、
骨組みのは見れた。 (* ゚ω゚ *)ノ
中にはかまどもあって、ここで煮炊きをしていたんだろうな。

南大路跡から南築地塀を望む。
この両脇には竪穴建物が1200~2000棟も建ち並び、
8000~1万人の兵士が単身赴任で常駐していたそうな。

東北自動車道を走るトラック(笑)と櫓(右の建物)
敵が攻めてきた時に、この上から矢を浴びせて防御した。
と、書きながら「敵って、蝦夷、つまり東北人のことじゃん」。( ̄▽ ̄;)
胆沢のアテルイやモレが政府軍と激しく戦ったことはよく知っている。

ところが、この志波の首長アヌシキは坂上田村麻呂と友好関係を結んだそうな。
志波城跡から2キロほど東に行くと
坂上田村麻呂が祀られている 大宮神社がある。

アテルイとモレの敵である坂上田村麻呂が何でここに祀られているんだろうと思ったが、
今日はいろいろ学んで、その謎も解けた。
普段、そこにあるのが当たり前と思っていたものの歴史を知った一日だった。