地元で愛されている郷土の作家や偉人は どこにでもいますが、
宮沢賢治は 岩手の代表的な作家のひとりです。
私は 高校のときに 「永訣の朝」を学びましたが、
洞察力のない未熟な頭には 「難解で苦手」 という印象が 刻み込まれ、
岩手人になってからも、深く調べることもせずに なんとなく避けてきました。(笑)

小岩井の一本桜
でも、ここ数年で あることがきっかけで 賢治の作品を やっと手にするようになり、
心の深いところ、自分でも今まで 気づかなかった 内奥の心の目が 開かれました。
そのきっかけというのは、 『挫折』 を経験したことです。
何日も眠れぬ夜を 過ごしたあとに 見上げた 紺碧の空は ひたすら青く、
ただ静かに透き通った風が 吹きわたっていました。

あとで 知ったのですが、賢治も生涯中に 何度か挫折を経験し、
37歳で肺結核で 亡くなる少し前に 病床から 空を見上げて、同じ思いを詩によんでいたのでした。

谷川のきらめき
世間知らずで未熟だった自分が、やっと賢治の作品に共感できるまで成長したのでしょう。
賢治の作品を読んでみよう、調べてみようと思ったのは それからです。
私が宮澤賢治の作品に ひかれた理由のひとつに、自然に対する賢治の見方があります。
賢治の童話では、人と動物や植物、風や雲や光、星や太陽といった
森羅万象が語りあったり、交感しあったりします。
最初のうちは 常識に凝り固まってしまった頭には すんなりとは 受け入れにくく感じました。

初夏の人懐っこいモズ
賢治は、生き物はみな兄弟であり、生き物全体の幸せを求めなければ、
個人の本当の幸福もありえないと考えていました。

小岩井農場の馬
さらに賢治はフィールドワークの人で、
山野を歩き 生き物や鉱石、風、雲、虹、星との関わりに、我を忘れて没頭し、
岩手の大自然の中から 作品のモチーフを 得ました。
山桃の木にとまるヒヨドリ
賢治の作品の根底をなすのは、自然に対する 人間のごう慢さに対する警告や、
人と生き物と地球と宇宙の関係を とらえ直すべきであるという 理念です。
夕日に染まる小岩井の入道雲
東日本大震災を機に 人類が いかに今まで 自然界に対して
ごう慢に振る舞ってきたかを 誰もが痛感したのではないでしょうか。
そして誰もが危機感を抱き「人間と自然との共存」を再認識しています。
80年以上も前に 賢治が唱えた 理想の世界に 戻る時が来たかのようです。
もうひとつ 私の心を打ったのは、賢治自身の生き方でした。
宮澤賢治は 明治29年(1896年)に岩手県花巻の 裕福な家庭に生まれましたが、
質屋という家業柄、周囲の貧しい人たちから絞りとった利益によって
恵まれた生活をしているという思いに 賢治は苦しみました。

小岩井地区の農家の畑
当時の岩手は、 数年ごとに冷害に見舞われ、困窮した農民は飢えに苦しみ、
娘の身売りなども 普通におこなわれていました。
農学校の教師をしていた賢治は、教え子たちを通して、農民の窮乏を痛感、
彼らの生活を改善させるために 辞職し『本物の百姓』になって農業指導にあたりました。

雫石の古い牛舎
賢治のその思いの背景には 仏教へのあつい信仰心がありましたが、
農民と同じ貧しさを自らに課し、苦闘する生活は 並大抵のことではなく、
激務で 肺結核が悪化し、 37歳の若さで亡くなりました。

まさに 『自己犠牲』の生き方を貫き通した人でした。
貧困にあえぐ農民の救済は、賢治自身に何か義務があったわけではなく、
人々への愛と良心に 突き動かされて 自ら選んだ道でした。

有名な『雨ニモ負ケズ』の詩は、死期が迫っていた賢治が 病床に臥していた時に書かれたもので、
私的には 彼の無念の思いの詩だと感じています。
過去記事の『サフイフ モノ二 私モ ナリタイ』をごらんください

震災後、賢治と同じように『同胞愛』に突き動かされて、
被災者の救援のために 自己犠牲を 払っている方々を 大勢 目にしてきました。
そして、そのような同情心にあふれた人たちが、この拙いブログにも 集まって、
私を温かく励ましてくださっていることに 本当に感謝しています。
ニセアカシアの花 このあたりには この木がとても多く見られます
近年、世代をこえて熱心な賢治の読者が増えているのは、
日本社会のいき詰まりを感じている人たちが、
賢治の著作に新たな方向を探っていく手がかりを 見出しているからなのでしょうか。

夕闇がせまる 小岩井農場
『自然との共存』 そして 『自己犠牲的な同胞愛』…
80年前の 貧しい田舎の素朴な青年が 求め続けた イーハトーブ。
それは 現代の困難な課題に挑もうとする人たちが 目指すべきものではないかと思うのです。