ディマジオに乾杯 トム・ウェイツ「想い出に乾杯」論④ | ヨコハマタソガレバナナスタンド

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都内某劇場勤務。
ミュージカル、映画、将棋、落語、特に志ん朝、音楽、なかでもクレイジーケンバンド、ビートルズ、野球、わけてもベイスターズ、These are a few of my favorite things

【前回までのあらすじ】 

トムウェイツの「想い出に乾杯」はバーソング、酔っ払いソングとしても名曲だけど、野球ソングとして飛びぬけて素晴らしい曲だなあ。
4人の野球選手、ディマジオ、ドライスデール、マントル、ホワイティーフォードの名前を並べるだけで、いろいろなことを語ってるなあ。
そのあたりについて、サックと書いてみよーっと。。。。。思ったら、グダグダして、なかなか話が核心に至らんのう。。。。

ディマジオに乾杯 トムウェイツ「想い出に乾杯」論③

ディマジオに乾杯 トムウェイツ「想い出に乾杯」論②

ディマジオに乾杯 トムウェイツ「想い出に乾杯」論①

 

ドジャース ブルックリンを去る

そんなわけで、トム・ウェイツの名作野球ソング「想い出に乾杯」に登場する最重要人物ドン・ドライスデールについて知るには、是非とも理解していただきたいのが、1950年代、60年代のニューヨーク野球事情です。

が、どーも頭の悪いヤツの文章の典型で、語り口の効率が著しく悪く、なかなか前に進まないので。。。お!そーだ!じゃ、頭のいい人の書いたテキパキした文章を引用しまくって話を進めちゃう作戦発動!うーん、俺って頭イイじゃん!と、簡単に立ち直って、おもっきりアテにしちゃうのが「来年があるさ」と、 「ドジャース、ブルックリンに還る」 の2冊です。

一冊目「来年があるさ」は著者ドリス・カーンズ・グッドウィンのブルックリン・ドジャーズを溺愛した日々を縦軸にした自伝。

 

 

ドリス・カーンズ・グッドウインはスピルバーグの「リンカーン」の原作者として有名な、ピュリッツァー賞受賞歴のある歴史学者、伝記作家ですが、実はカンペキにケイティー・ケイシーな筋金入りの野球狂で元ブルックリン・ドジャースファン。

優秀な歴史学者が当時熱烈応援してたチームとの日々を描いたわけですから、こんなに頼りになる本はないですね。

ちなみにケイティー・ケイシーとは、7イニングス・ストレッチの曲、ご存じ「野球に連れてって」の主人公です。

1949年、6歳の誕生日に熱狂的ドジャーズファンの父親から、赤いスコアブックをプレゼントしてもらった著者が、将来のピューリッツァー賞歴史学者的資質を遺憾なく発揮、そのスコアブックに記録をとりながら、どんどんドジャースにのめりこんでいく。

ドジャースがブルックリンを去った1957年かぎりでベースボールと決別。。。レッドソックスファンとして再びベースボールマッドとなり、自分のこどもたちにベースボールの魅力を伝えていく。。。までの自伝です。

こ の本の素晴らしいトコは、ドジャースと自分の少女時代だけを描くだけでなく、赤狩り、ローゼンバーグ事件、リトルロック高校事件、等のアメリカ的出来事、 あるいはブルックリン郊外の住宅街、ドラックストアや肉屋さん、ご近所、避暑地等の風俗を、ドジャースの日々と並列的に活写してるトコで、さすが腕のある 歴史学者の自伝ですね。

 

 

 もう一冊のタネ本は「ドジャース、ブルックリンに還る」はブルックリンドジャースファンの喪失感を癒すファンタジー小説。。。なので、とーぜんフィクションなのですが、この種のフィクションこそ、ディティールのリアリティーがキモですよね。

で、この作品も、そーそーそー、熱烈ファンの心情ってこーだよなあ、と納得の鋭い心理描写が端々に溢れています。

「ド ジャースが西海岸へ移って30年、大リーグに異変が起きた。ドジャースを古巣ブルックリンへ連れ戻そうというのだ!その中心となったのは50年代の熱狂 的ドジャース・ファンの2人。球団を買いとり、計画は滑りだした。ただし戦力は最低のお荷物チーム、それでもブルックリンを、エベッツ・フィールドを目ざ して、二人の男の夢の旅はつづく。 」(amazon「BOOK」データベースより)

 

 

 

 

 

さて、その誕生以来ベースボールとニューヨークは相思相愛、ベースボール国の首都はずっとニューヨークでったのですが、わけてもヤンキース5連覇初年度にあたる1949年からニューヨーク・ジャイアンツとブルックリン・ドジャースが西海岸に移転する57年までは、特別な時代でした。

ここから長々と大引用大会となりますが、野球ソングとしての「想い出に乾杯」を理解するためには、ニューヨーク、ブルックリン・ドジャース、そのファンのビビット&熱い機微がとても大事なポイントになりますので、お付き合いください。

「アメリカ野球史」とゆー授業があったら、はい、ここ試験でるよー!ってトコです。

 

 

 

「幸運なことに私は、ニューヨークの野球ファンが心底いい思いをした時代の、まさに幕開けともいえる時期に、野球への恋におちている。
私が子供時代をすごした時期にあたる、1949年から1957年までの9シーズンは, ニューヨークを本拠地とする3つのチーム、ドジャース、ジャイアンツ,ヤンキースの黄金時代だったのだ。
私たちは毎シーズン、地元3チームのいずれかがワールドシリーズに出場するのをたんのうした。
この黄金時代に、ヤンキースはワールドシリーズを5連覇し、ジャイアンツはリーグ優勝2回、ワ-ルドシリーズ制覇1回という成績をあげている。
そしてわが最愛のドジャースは、ワールドシリーズ優勝を1回、リーグ優勝を5回、なし遂げてくれた。ただし,シーズン最終戦の最終イニングという,文字通りのどたんばで, 2回もリーグ優勝を逃すというおまけつきだ。
フリーエージェント制が生まれる前のことだから, スターティングラインナップは基本的に何年
間も固定されていた。だからファンは、ひとつのチームに忠誠を誓った。ひいきの選手が毎年,同
じポジションをキープしていたし 愛すべき癖やとんでもない悪癖を,またきっと披露してくれると
いう, 一種の安心感があったからだ。」 (来年があるさ)

 

そのニューヨークの3チームには、それぞれ特色があって。。。

 
「近所の野球狂は、ヤンキースファン、ドジャースファン、ジャイアンツファンの3派に分かれてい
る。
初期の移民たちが、民族的な結束をアメリカにもちこんだように、郊外の移民たちも,出身地によってひいきのチームを決める傾向にあった。ブロンクス出身はヤンキース、マンハッタン出身はジャイアンツ、そしてもちろん、ブルックリン出身はドジャースだ。
各家庭でも、ひいきのチームは父親から子供へと受け継がれ、チームの歴史的瞬間も、教会の祈祷書のようにくりかえし語られた。
やがて、チームとファンをまとめてパターン化する. じつにわかりやすいアイデンティティーが誕生した。チームの特徴とファンの性格をひとことで言いあらわす、おおげさで滑稽な愛称が生まれたほどだ。
ヤンキースの連中は、「ブロンクスボンバーズ」と呼ばれた。縦縞のユニフォームはエリートを象徴し、支持層は、'ウォールストリートの証券マンやお偉方のビジネスマンなど,もっぱら金持ちの人生の成功者たち。
ドジャース一派の愛称は、「デム·バムズ」。
バカなやつら、気取らない道化者、のニュアンスをこめた言葉で, ファン層は、下品な言葉を使うみすぼらしいブルーカラー、というイメージが強い。
ジャイアンツは、1919年の昔からストーンハム一族が代々受け継いできた保守的なチームだ。
ファンは中小企業のビジネスマンが多く、シャツにネクタイ姿で、スタンドから行儀よく観戦している。この連中のアイデンティティーはややあいまいで、「持つ者」のヤンキースと、「持たざる者」のドジャースとの、いわば中間にあたる。」  (来年があるさ)

ちなみにバムスのビジュアルイメージ↓(笑)


そのバムスファンから見たヤンキース。
 
「彼らはファシストだ」父はよく言い言いした。「血も涙もないファシスト以外の何者でもない」彼の言っているのはヤンキースのことだった。

それがーファシストという言い方がー彼らを名ざしするときの父の決まり文句だったが、私とボビーがその 言いまわしを覚えたのもそこからだった。

以来、生涯にわたり、私たちにとってヤンキースはファシストということになった。

たいがいのことについては父はものわかりがよかったが、ことファシストに関してはそうでなかった。

やつらは敵だ。やつらは庶民を毛嫌いしている。

金めあてに野球をしるにすぎない。

それに引き換え、ドジャースの選手はわれわれと似た者同士だ。

彼らは野球が好きでやっている。

彼らは地の塩であり、黒人選手にプレーを許しているが、ファシストどもはそうじゃない。

そして、ここまでくると、話は往年のドジャースの回顧談になるのだった。

(中略)

父はまだドジャースの話をしていた。「あのチームには人の心を打つものがある。負けたときでさえ感動させる。だからこそブルックリンの人間は彼らをこんなに愛しているんだ。
この区を牛耳っている根性曲がりの政治家たちの半分でも、あの野球選手たちのような頭をも
っていたら,われわれはもっと暮らしやすくなるんだがね」 (ドジャース、ブルックリンに還る)

 

ちょっとベイスターズファンからみた巨人軍みたいですね(笑)

続いてホームグラウンド、エベッツフィールドの描写。

 

「それは夜の闇のなかに黒々と孤独に立っていた。見れば見るほど美しい球場だった。それが
まるでキャンディ·ストアか学校のように、さながら友人のように、身近な場所に立っているのだ。

じっさいそこには、エベッツ·フィールドには、人格があった。」 (ドジャース ブルックリンに還る)

 

世界中どこの野球ファンもフランチャイズ球場に対する想いは特別なものがあります。

続いて「来年があるさ」のエベッツフィールド描写。

 

スタジアムへ通じるトンネル状の通路を歩きながら,父は私に予告した。
「いいか!もうすぐ世界一きれいなものが見えてくるぞ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに......ホントだ見えてきた!
赤茶色のダイヤモンドと、信じられないほどきれいなグリーンの芝生と、空席などひとつもなさそ
うな超満員のスタンド。
私は本能的に父の手をつかみ、ホームプレートとファーストのあいだの席に向かってゆっくりと
歩いていく。
グラウンドに近い席だ。選手たちが走ってポジションに向かいながら交わす会話が聞こえるし、ウ
エイティング サークルで次の打席を待つ選手のジェスチャーや癖までが、手にとるようによく見える。
居心地のいい小さなさな球場のことだから,そういう席はごまんとあったのだ 。 (来年があるさ)

 

相手バッターが三振してダグアウトに引っこめば、『ウジ虫が出たり入ったり』をかなで、選手がベ
チにすわったとたん、大太鼓をドーンと打ち鳴らす。敵のピッチャーがリリーフ投手に交代させら
れば、『誰かに場所を奪われた』というセレナーデで、マウンドを去る投手を送り出す。
こういう悪ふざけに、対戦相手がイライラをつのらせればつのらせるほど、ドジャースファンの仲間意識は高まって、エベッツ·フィールドに行った思い出が、忘れられないものになる。(来年があるさ)

 

愛ですねえ。

文章の隅々から、エベッツフィールドとバムスに対する愛が、にじみ出ています。

その愛するドジャースが1955年に遂にワールドシリーズ初優勝します。

それまでは、リーグ優勝はしても、最後の最後に悉くファシストに煮え湯を飲まされ続けたバムスが、そのヤンキース相手に最終第7戦を制してのワールドシリーズ制覇!

嬉しかっただろーなー。

 

1898年に、ブルックリンが誇り高い歴史と独立の立場を捨て、ニューヨーク市に併合されて以来
ブルックリンっ子たちは、マンハッタンの陰で肩身の狭い思いをしてきた。
この年(1955年) の3月に、ブルックリンの誇る日刊紙『ブルックリン·イーグル』
が廃刊を余儀なくされたときには、”二流市民 の烙印を押されたような屈辱感さ
え味わった。
しかし,今夜は「ブルックリンの夜」だ。マンハッタンではなく,ブルックリンが世界の中心なのだ。
ドジャースファンは,「来年があるさ」となぐさめ合う必要がなくなった。ワールドチャンピオン
の栄冠を、今年こそ手に入れたのだ。 (来年があるさ)

 

ところが、悲願のワールドシリーズ制覇からわずか2年後、チームはブルックリンを去り、ロサンゼルスに移転してしまいます。

 

1956年にも、ドジャースはリーグ優勝をなし遂げたが、この年は不穏なシーズンだった
夏のあいだに、チームの将来が危ぶまれ、間近な優勝の喜びに水を差すような事件が起こっ
だ。
8月、ドジャースがワールドシリーズに向けて優勝街道をばく進していた。その真っ最中に
オーナーのウォルター·オマリーが爆弾発言をして、街じゅうにショックの嵐を巻き起こしたのだ。
ニュージャージー州のジャージー·シティで、ドジャースが7戦か8戦の"ホームゲームを行うことを,ナ·リーグ本部が許可した、という。
これはとりもなおさず、オマリーがドジャースの新しい本拠地探しを始めたということだ。
チームの目覚ましい成績とは裏腹に、エベッツ·フィールドの観客動員数が、年々、減少の
たどっているのは事実だった。 

  (来年があるさ)

 

評論家たちは、エベッツ·フィールドは古すぎる、狭すぎる、と文句ばかり言っている。中流家庭は
次々に郊外へ移り住み、貧しい黒人やプエルトリコ人ばかりがあとに残されて、球場周辺の環境が
急速に悪化しているのはたしかだ。
郊外居住者となった人々は、夜にわざわざ物騒な街へ出かけていくよりは、テレビで試合を観戦す
るほうが安心だと思いはじめている。だいいち、駐車場にたったの700台しか車を収容できない球場が、今のご時世に生き残れるわけもない。
私個人としては、エベッツ·フィールドの悪口は聞きたくない。あの古い球場が大好きなのだ。ド
ジャースがほかの場所に引っ越してしまうなんて、想像するだけでもいやだ。 

 (来年があるさ)

 

いま思えば,野球が変化のときを迎えていたのだ。
ファンが同じ街の同じチームを応援できた時代、すなわち, 50年にわたる”安定期が終わった今、
大リーグの3つのチームが,次々によその土地へと引っ越していった。収益を上げるために、長年の
ファンを捨てて。
ボストン・ブレーブスがその先陣を切って1953年にミルウォーキーに移った。

翌年、セントルイス・ブラウンズがボルチモア さらにその翌年, フィラデルフィア アスレチックスがカンザスシティ・アスレチックスに変わった。
どのオーナも、みずからの決断を経済的事情と正当化しているが、こうした移転は、その後,
国民的娯楽に商業的打算がずかずかと入りこむ,まぎれもない前兆だった。
1957年。ブルックリン ドジャースがファンを裏切る兆しは ますます濃厚になってきた。
ついにオマリーオーナーが, ニューヨークを離れてロサンゼルスに行くかもしれない と言い出
した。 

 (来年があるさ)

 

いくら嘆願書を山のように提出しても、長年のファンの気持ちや伝統をいくら引き合いに出してもオマリーの決心をくつがえすことはできなかった。
ロサンゼルスが彼に、300エーカーの一等地を提供するばかりか、球場への交通を確保するため
に、市の予算500万ドルを投入して新しい道路を建設する、と約束したからだ。

 (来年があるさ)

 

2012年、13年と、わが溺愛の横浜ベイスターズがあわや横浜から移転してしまうという危機を体験してるので、ほんと身につまされますねえ。。。

そして涙なしには読めない、一番悲しい場面。

ブルックリン・ドジャースの

エベッツフィールドの

最後の試合。

 

1957年9月24日火曜日の夜、ドジャースはエベッツ·フィールドで最後の試合をおこなった。
ドジャースがこの球場で二度とプレーしないのは、周知の事実にもかかわらず、ドジャースは、公式な送別会を故意に設けなかった。その結果、球場に足を運んだファンは7000人にも満たなかった。
それが一層、よるべのない寂しさをつのらせた。
デューク·スナイダーがのちに、こう回想している。
「照明が故障しているのかと思ったよ。まるで、たそがれの光の中で試合をしている感じだ。
キャプテンのピー·ウィー·リースが,チームメイトたちをグラウンドに導くのもこれが最後だ。
ドジャースは2対0で勝ったが、喜びはなかった。

リーグ優勝したミルウォーキー·ブレーブスに10ゲームも水をあけられて、ドジャースは結局3位に終わっている。
オルガン奏者のグラディス グッディングが、しっかりとした演奏で最後の試合を誇り高く締めくくろうと、彼女なりに努力した。
ノスタルジックな曲のメドレーだ。

ドジャースが1点を入れたときには、『あなたは憂鬱』と『あなたが去ったあと』を、2点目が入ったときには、『私が去る理由を聞かないで』を演奏。

最終イニングにさしかかると、『思い出をありがとう』、『夜のブルーが朝のゴールドに変わるとき』,さらに『ケセラセラ』を,そして最後のアウトがコールされたときには、『あなたに神のご加護がありますように』を選んで弾いた。
ところが, ファンに対する彼女のささやかな心配りは、ドジャース首脳陣の野暮な行為で踏みにじ
られた。

試合終了後のいつものテーマ曲『ドジャースにドンとついてこい』が、スピーカーから流れてきたのだ。
しかし、最終的にはミス・グッディングに軍配が上がった。

19年間、オルガン演奏によってドジャースを支えてきた彼女が、今日の日を自分なりに締めくくろうと決心したからだ。
『蛍の光』のイントロがグラウンドに流れはじめると、ファンたちはいっせいに立ちあがり、腕と
腕を組んだ。

手放しで泣いているファンも、そこかしこにいる。
やがてひとりずつ、または小さなグループを作りながら、最後の観客がスタジアムから姿を消した。
彼らの背後で、エベッツ フィールドは永久にその扉を閉じた。

 (来年があるさ)

 

泣けますねえ。。。何度読んでも胸が痛い。

そして、このエピソードに登場した「蛍の光」は、「想い出に乾杯」のイントロにつながるのですが、

その件はひとまず置いておいて、引用を続けます。

 

 

こいつは、金のあるやつならだれでもロングアイランドへ逃げ出せるように、 ロバート・モーゼズがブルックリンから外へつづくハイウェイ建設したときにはじまったパターンと軌を一にするんだ。

あの道路のおかげで古い近隣のよさが台なしになった。

ついで,オマリーがドジャースの本拠を移した。

ブルックリンが怖くて逃げ出したがっている人間が大勢いたとしても、やつほど肝っ玉の小さいやつもいない。
尻に帆をかけてはるばる太平洋まで逃げていったんだからな。

 (ドジャース、ブルックリンに還る)

 

 

われわれが野球に必要としているものは共感です、それが真実だ、ゲームや、選手たちや、なかんずく精神的にも道徳的にもチームを所有する共同体への共感なのだ。

かつてそのような共同体が存在したことがあった。

その名をブルックリンと言ったが、私に言わせれば、そのような人々が自分たちのチームを奪われたとき、野球は魂を失ったのです。  

(ドジャース、ブルックリンに還る)

 

ブルックリン·ドジャースのファンの心の中で、オマリーは「歴史的裏切り者」の列に名を連ねる
ことになった。

古くは、キリストを裏切ったイスカリオテのユダ,独立戦争でウエストポイントを敵に売り渡そうとしたベネディクト·アーノルド、そしてウオルタオマリーだ。

ドジャースのオーナーを模した人形が、ブルックリンのあちこちの路上で燃やされた。
すべてが終わった。
 (来年があるさ)

 

 

そんなわけで、1957年ドジャースとジャイアンツは西海岸に引っ越しました。

ブルックリンの野球ファンは、これから先どーやって野球と付き合ったのでしょうか?

ニューヨークに残ったのは、よりによって、にっくきヤンキースのみ。 

 

あなたならどーしますか?

 

裏切り者(と思わずにいられない)ロサンゼルス・ドジャースなるチームを応援する?

すくなくともホームゲームは球場で観ることもできないチームを。

二股かけられて手ひどくフラれた異性に文通を申し込むよーなもんですよねえ。。。

さんざん“ファシスト”呼ばわりして目の敵にしてきたヤンキースを応援する?

野球なんか観なくなる?

。。。。うーん。。。。

 

今でも、著書のPRや講演のために旅行すると,行く先々で、かつてのドジャースのファンや、「父がドジャースのファンだった」という人たちに出くわす。

彼らは一様に,ブルックリン·ドジャースの愛好者たちが過去に共通して味わった、苦痛と喜びの入り交じる複雑な思いを、昔話をしながらわかちあおうと、熱心にもちかけてくる。

 (来年があるさ)

 

私の個人的な喪失感は、時間と様々な出来事のおかげでずいぶんやわらいだ。

しかし、オマリー.オーナーの裏切りに対する怒りだけは、どうしても消えなかった。
<コルピーカレッジ>時代も、<ハーバード大学>-の1年生だったころも、野球を断固拒否しつづけた。『ロサンゼジャース』だか、『サンフランシスコ·ジャイアンツ』だか知らないが、そんな訳のわからないチームの成績が載っているスポーツ欄は、さっさと飛ばして読んだ。

 (来年があるさ)

 

「私たちはともに二十五年近く彼らのことを無視した。彼らがロサンジェルスくんだりへ出ていったことを憎み、連中はもはやドジャースですらないのだというふりをした。」

 (ドジャース ブルックリンに還る)

 

結局、ドリス・カーンズの結論は、ベースボールに一切近寄らないとゆーものでした。
そして十数年の後、ボストン・レッドソックスにかつてのブルックリン・ドジャース的な何かを見出し、ボールパークに復帰します。
そんなに長いこと野球絶ちできるかなあ。。。。
熱烈野球バカの僕には無理ですね。
火・火・水・木・金・土・日♪野球のない月曜日なんかなければいいのにってクチですもん。
“贔屓チームより野球の方が大きい”と、時たま嘯いてみたりしますが、口だけです。
贔屓チームなしにスポーツ観戦するのって、難しいですよねえ。
オリンピックの突発性ナショナリズムや、高校野球に都市対抗なんかの人気は、競技そのものの魅力だけでは説明つきませんもん。
我が溺愛のベイスターズが新潟に移転か?とゆー時期、スワローズやマリーンズファンに鞍替えすることを3秒想像してムリっ!!!となりましたもん。
。。。けど、いたでしょうね、口にこそ出さねど、ベースボール禁断症状に耐えかねて、ヤンキースに鞍替えした人。
或いは、ロサンゼルスに行ってしまってからもドジャースを応援し続けた人。
もう野球なんかに興味ないって公言しながら、熱心な野球ファンであり続けた人。。。
この人たちにとって、1963年のワールドシリーズ第3戦は強烈なトラウマ体験となってしまいます。
そして、その試合の主役こそ誰あろう「想い出に乾杯」最重要人物ドライスデール投手なのですが。。。。

すんません。。。

なんか、この先の全文を入れると、アメブロ規定の容量を超えちゃうらしく、うまくアップできません。

きっと、やり方があるんでしょーが、そっち方面に極めて昏いおじさんは、2回に分けるとゆー一番イージーな選択をしちゃいます。

なので、またも尻切れトンポの次回に続くの巻。

仕事も休みなので明日、続きをアップしますので、よろしかったら、また遊びに来てくださいな。