武藤さん | 珈琲にハチミツ

珈琲にハチミツ

プロレスの話などをつらつら綴るブログです。

感想やご意見気軽にどうぞ★

2023年2月21日東京ドーム。ついにプロレス界最後のスターが引退の花道を飾りました。

名は武藤敬司。

1984年10月5日デビュー。昭和から平成、令和と時代を駆け巡り日米を股にかけた活躍ぶりから人は彼をプロレスリングマスター…もとい「天才」と呼びました。

武藤の最後の相手は、新日本プロレス内藤哲也。

否、

闘魂三銃士の盟友、蝶野正洋でした。



武藤と蝶野。

蝶野と武藤。


同期入門のこの二人は、1984年10月5日埼玉県越谷市体育館で同時デビューを果たしています。


武藤が体固めで蝶野を破りデビュー戦を飾って以来、この二人は幾度となく対戦を重ね、気がつけばともに新日本プロレスの屋台骨を支えるトップ格へとのし上がっていました。


武藤対蝶野の対戦成績は武藤の30戦19勝8敗1引き分け(グレートムタ含む)


ムタ対蝶野は1993年のIWGPヘビー級、NWA世界ヘビー級のダブルタイトルマッチを皮切りに、1997年、2000年とやたら東京ドームでの対戦が多かったように思えます。かたや武藤対蝶野も2000年の1.4東京ドームや2001年7.20の札幌ドームと大舞台でのシングルが組まれていることから、新日本内でいかにこの二人の対戦が集客面や試合のクオリティで信頼されていたかが伺えます。とはいえ勝負は水ものなので凡戦もなかにはありましたが…


ちなみに余談ですが、1997年秋からnwoムタが武藤となって本格化した二人のタッグは最強でしたね!確か福岡ドームで藤波天龍の二人を子ども扱いして、IWGPタッグチャンピオンのままSGタッグリーグ制覇、翌年4.4東京ドームでも橋本西村組に完勝と向かうところ敵なしのタッグでした。人によっては武藤のベストパートナーは馳浩。という方もいらっしゃると思いますがこの1.2年の脂が乗りきった二人に敵う相手はいなかったのでは? 


1990年に蝶野と組んでタッグ王座を獲ったことを振り返り、武藤はふたりのタッグについてこう語ったことがあります。「蝶野がパートナーだったっていうのも、その時の俺にとっては一番やりやすかった。新弟子の頃から一番よくつるんで遊んだのも蝶野はだったし、相談事に一番乗ってもらったのも蝶野だったからね。同期のなかで一番歳が近いし、気心が知れてるっていう部分でも蝶野がベスト・パートナーだった。-中略- ただ逆にタッグを組んでいくなかで、俺たちはもしかしたらタッグを組んでちゃいけないんじゃないかな、と思ったりもしたんですよ。ライバルとしての宿命っていうか、俺たちが組んだらどんなチームにも負けないっていうのと同時に、組んだら向上がないんじゃないかって…そういうのも芽生えてきた。」


…と、話が少しずれてしまいました。


武藤と蝶野のライバルストーリーが頂点に達したのは2001年、武藤が全日本プロレスの三冠王者になって蝶野を相手に迎えた日本武道館決戦。


三沢、小橋らの大量離脱を経て死に体となったとはいえ、ライバル団体である全日本プロレスの聖地、日本武道館で新日本プロレス同士が三冠戦でメインを飾る…これ以上ない舞台を終えた武藤と蝶野は、以来二度とシングルで向き合うことはありませんでした。


翌年に武藤が全日本プロレスへまさかの電撃移籍。一時的に国交断絶となったものの、翌年にはマット界全体の不況の余波で再びあゆみ寄ることとなった両団体。しかしながら武藤と蝶野がシングルで向き合う日は訪れませんでした。時の流れは早いものです。リング上は世代交代がどんどん進みファン層も入れ替わって、もはやとっくに三銃士の時代は終わった。と二人自身が肌で感じでいたんでしょう。互いのコンディションも限界でした。もう、あの頃の試合はできない。



…そして迎えた引退試合。

諦めかけていた二人の、最後の対戦が実現しました。多くは言いません。夢の続きがほんのちょっぴり見れた。それだけで充分です。


何度、心の中で武藤と蝶野にはありがとうと言ったか分かりません。色々ありましたがプロレスを見続けて良かったと思わせてくれるいい試合でした。



余談ですが…

引退試合の一連の流れをみて、改めて武藤には天使と悪魔が同居してると思いました!

人はそれを「天才」というのかもしれません。