答えは人それぞれ、見てきた年代や好きな選手によって違ってくるだろう。それらの答えの中からこの言葉が出てくる割合は比較的多いのではないだろうか?
「猪木イズム」
されど、アントニオ猪木本人の言葉によれば…
「猪木イズムと言われてもいい加減だから、イズムも何もねぇんだよ。」本人談
…身も蓋もない(;^_^A
では大雑把な括りではあるが新日本プロレス史において各年代のアイコン的選手と照らし合わせてもう少し踏み込んでみよう。何か掴めるかもしれない。
2012〜2017 オカダカズチカ
2004〜2011 棚橋弘至、中邑真輔
2002〜2003 永田裕志、天山広吉
1991〜2001 闘魂三銃士
1982〜1990 藤波辰爾、長州力 (1986のみ、前田日明)
創立〜1981 アントニオ猪木
ぼんやり眺めていると…ある共通点が浮かんでくる。それは各選手が創立者アントニオ猪木と何らかの関わりがあり、最終的には反対側の立場に周る結末を迎えている選手が多いということ。
※オカダ、当然創立者を除く
それだけアントニオ猪木という存在は、大きい。
そして、2017年現在進行形のアイコン、オカダカズチカが猪木と直接的な関わりがないのもひとつのポイントであるがそれはさておいて、猪木は中邑真輔との関係を最後に新日本プロレス現役レスラーとの関わりを完全に絶っている。逆説的にいえばギリギリまで猪木と関わりを持っていた選手が中邑真輔ということになる。今回はこの二人のエピソードにふれてみよう。その先に何かが見えてくる…⁇
※話を進める前に、実は柴田勝頼もピックアップしようかと迷っていた。出で立ちやこれまでの歩み等を含めてある部分では猪木イズムの体現者ともいえるかもしれないが、中邑と比べると猪木本人と共通してきた時間が少ないようにみえたので今回は割愛させていただく。中邑真輔とのエピソードで語りたい話もあるのだがそれはまたの機会に…
「僕の場合はデビューした当初から「媚を売るな!」とアドバイスしてくれた、アゴの長い人が身近にいましたからね(笑)」中邑談
中邑真輔とアントニオ猪木の関わりは、中邑が2002年当時、新日本プロレスがロサンゼルスに設立した通称・ロス道場から始まる。デビュー戦を終え、突如ロス道場行きを藤波社長(当時)より告げられ戸惑う中邑。
中邑「何をしてきたらいいんですか?」
藤波「う〜ん、オマエが決めろ!」
デビュー戦1試合しかこなしていないヤングラインにこの仕打ち(;^_^Aしかし中邑はこのロス道場で多くの格闘家と肌を交え、のちの総合格闘技出陣の基礎を積むことができる。そして新日本プロレスの創立者であり、当時なぜか日本とロスを忙しなく往復していたアントニオ猪木から直接手ほどきも受けることに。
「スパーして思ったのが、ホントに極まらないなって思いましたね。-中略-俗に言う猿手ってやつですか。それは本当だったと思いますし、猪木さんってもの凄く身体が柔らかいんですよ。股関節が異常に動くから、アキレス腱を取ろうが、ヒールを取ろうが、わかりやすく極端に言えばヒールなんかはどれだけ絞り上げても極まらない。」
「猪木さんは脚の180度開脚をいまだにやってますからね。理にかなった練習をされてると思いました。トレーニング場でも柔軟しかしないんですけど、ずっと「中邑、柔軟をしろ」って繰り返し言ってたのはそういう意味があったんだなって思いますね。」
中邑談
海外試合の機会も与えられる。ブラジル、アマンゾン奥地(!)でのジャングルファイト。北朝鮮での世界武道博覧会へ出場。そしてリング外での関わりも増えてくる。一緒に食事に行く回数も多く、新しい師弟関係が徐々に構築されていくかにみえた。が、ある事件をきっかけに両者の関係は一変することに。
メインイベント
中邑真輔、中西学VS藤田和之、ケンドーカシン
猪木の介入によって強引に変更させられたカードである。当初メインは中邑と棚橋の初シングルであった。他のカードも猪木はいじくり回し、「ハッスル」小川直也、川田利明が急遽参戦するなど、カード編成は当時のリング上の流れを一切無視しためちゃくちゃなものであった。
「だから試合前のバックステージで文句じゃないですけれど、「オレはこういう考え方をしてます」ってアントニオ猪木に言ったんです。詳しいことは言えないですけどね。そうしたらアントニオ猪木の顔が真っ青になって、あわてふためいて「おまえがダーッ!をやれ」って言い出したんです。」中邑談
中邑は猪木に何を言ったのか?このやりとりには諸説あるという。そして猪木から藤田和之にある指令が下される。中邑をマジで潰せ!と
唇の破片が飛び散ちるほどのサッカーボールキックを浴びた中邑。
「客観的に振り返ると、つまらない試合だったと思います。でも一生懸命、僕はやったんですよ。一番若いけれど、舞台の重要さもわかってるし、一生懸命にやった。一生懸命やって、最後にマジで蹴られた。-中略-そうしたら、いきなりアントニオ猪木が出てきてぶん殴られた。」中邑談
猪木「怒りを見せろ!」
「わけがわからなかったですよね。アホか!と思いましたよ。だから試合のあと、そのまま京都の実家に帰ったんですよ。プロレスを辞めようかと思ったんです。」中邑談
時は流れ、中邑はアントニオ猪木に挑戦を叩きつける。
「猪木ー‼︎旧IWGP王座は俺が取り返す! 時代も変われば、プロレスも変わります! それでも俺はやります! ついて来る奴はついて来て下さい!」
2009年10月12日大谷晋二郎戦後
「何がアントニオ猪木じゃ!!俺の狙いはアントニオ猪木。これ以外の何ものでもない。以上」
「俺の言ったことは、神戸の時(真壁戦後)から変わってない。アントニオ猪木、ただ一人。猪木さんの言葉を待つ。誰かが代わりにとか、5対5とか、そういう古いやり方には付き合わない。俺が望むのは1対1。ここからは神の領域。答えなんて一瞬で決まるだろ」
新日本の株をユークスに売却し絶縁状態となっている猪木を再びリングに上げるのか⁉︎それとも中邑単身でIGFに殴り込みをかけるのか…⁉︎ファン、マスコミを巻き込み様々な憶測を呼んだこの騒動。中邑本人としては、一発アントニオ猪木をぶん殴りあの時の思いを清算したかったと言うが、真相は闇に葬られたままである。
※この一連の流れをリアルタイムで逐一追ってくださった紫レガさんのおかげで、再びプロレスへの関心が復活しました。(2006年〜2009年の間は新日本プロレスに関心が持てなくなっていたのでした。)この場を借りてお礼申し上げます。
…結局この抗争は特に発展することもなく数ヶ月程で収束に向かう。しかし中邑のこの発言からこれまでのアントニオ猪木との関わりから確実に何かを得た。そんな自負が垣間見えなくもない。
「僕は新日本が持つ独特の匂いが好きでこの世界に入ったわけですから、その匂いを継承していかなきゃならない。それを自分がやります!って宣言したかたちでもあったかなと思いますね。」
「まあ、猪木さんとそういう関係があった選手は僕が最後かもしれないです。お世話になりましたけれど、どっちかっていうと嫌いですかね。」
中邑談
※参考文献「中邑真輔の一見さんお断り」
技術的なもの、内面的なもの、そして表現力的なもの?これまでの経験を昇華した中邑真輔につけられた名は「キングオブ・ストロングスタイル」
しかし2017年現在、新日本プロレスに彼の姿は、ない。。
続く