皆さんこんにちは。
お彼岸は父の実家の山梨までお墓参りにいってまいりました。
86歳になる伯父にひさしぶりに会い、鎌倉で仕事をしていることを話した時に、戦時中の貴重なはなしを聞くことができました。
なにかに記録しておきたいと思いブログにかかせて頂きます。
伯父は戦時中、学徒動員で横浜は保土ヶ谷の軍需工場で働いていました。
食糧難の時代であったため、学徒には一日一合の米しか与えられず、栄養失調で結核になり仲間が一人また一人と亡くなっていったそうです。
伯父はこのままでは死んでしまうと考え、夜になるとこっそり畑に芋を採りにでかけたそうです。
もちろん、見つかれば厳しい懲罰がまっています。
それでも、生き延びるためには、そうするしかなかったそうです。
とにかく、食べられる物を手に入れ、生のまま食したそうです。
その経験から、さつまいもは生でも食べられるが、じゃがいもは生では食べられないと知ったそうです。
米も貴重でした。
監督官の目を盗んで、米俵に先端を切り落とした筒をさしこみ、筒の中にわずかにこぼれ入る玄米を生のままかじったそうです。
生の玄米はどんなに空腹でもコップ1杯の量も食べきることが出来ないぐらい、かんでもかんでも消化できない代物だったそうです。
それでも、玄米をかじったおかげで生き延びたと話してくれました。
夜の芋掘りや、監督官の目を盗んでの食料調達が限界に達したときは、最後の手段に出ました。
B29が空襲にきますと、監督官も学徒もみな防空壕に退避します。
その時がチャンスとばかりに、焼夷弾があられのように降ってくる中を防空壕に入らず畑に走り、芋を掘ってなんとか食料を手にしたそうです。
伯父が軍需工場で働いているときに、6歳下の私の父は学校の校庭を耕して、芋を植えて食糧生産に励んでいたそうです。
その学校にもおとずれましたが、いまは普通の校庭になっていました。
この固い土を耕して芋を植えたときいても、全く想像ができません。
なぜこのような話になったかと言うと、いよいよ戦局が不利になり、日本は負けると誰もが思いだしたころ、保土ヶ谷の軍需工場の学徒に七里ガ浜におもむきタコつぼを掘れという命令が下りたそうです。
そう、いまは観光客でにぎわう鎌倉の七里ガ浜です。
米軍が七里ガ浜から上陸するという情報があり、海岸線に穴をほって、爆弾を抱えてその中にひそみ、米軍が上陸したら自爆して撃退せよという命令だったそうです。
伯父は怪我による神経痛が悪化したと申告したところ、帰郷を許されたそうですが、帰郷するための汽車の切符を手に入れるため、11月の寒い逗子駅の前でじっと夕方の5時から翌朝まで寒さに耐えながら待ったそうです。
伯父は最後にひとこと、「戦争にまけて良かった。おかげで生き延びた。」と話して終わりました。
いま私が鎌倉で仕事をしているという話から戦時中の話になりました。
子供のころには一度も聞いたことがない話でした。
人はみな心に辛い思い出をもっていても、その辛さがわかる人以外には話さないのでしょうか。
伯父は病を抱えており、いま話さないと話す機会がなくなると思ったのでしょうか。
それは聞くことはできませんでした。
ただ、なにかに記録しておかなければならないと私は感じました。