コラム

日本の仏教において、原罪思考があるのは念仏宗系で法然や親鸞の浄土宗系と言えます、まあ私程度の理解ですが。

原罪と言う言葉は、当たり前のように使いますが、生まれながらにして罪を背負っての意味か、生まれながらにして罪を犯しやすい意味か、よくよく考えると深みに嵌ります。

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原罪も考えなくてはいけないことですが、「造悪無礙」と「専修賢善」も生きる過程では考えるとかなり深い悩みです。 「造悪無礙」とは、人間は所詮良き行いと言いながら、いつ悪事を働くか分からない、その様なものだから悪事がマイナス点にはならない。

「専修賢善」は、少しでも多くの善行を積み重ね、プラス点を加点しろの意味です。

私の場合幾つかの変遷がありますが、現在の歳となり「造悪無礙」なんだろうなと思います。

両方とも諸刃の剣であり、都合のいい解釈がまかり通り、「私はいい人だ」的恥理論派はきっと「専修賢善」が多いでしょう、恥理論とは勝手な言葉ですが、他人からの評価を重んじる思考で日本人の根本です、神への罪の意識よりも他人の評価で推し量るの意味です。

親鸞は80歳前後でも、まだ悟りも喜びも見出せないと弟子に言ってしまう素直で素晴らし人物だから、いつでも悪事に染まる人間の本質を見抜いて、偉そうにしていないお姿を想像できることが魅力なのでしょう。

「造悪無礙」だからと言って悪事を働いても良いと言うのが、ある意味善人、でも親鸞聖人の言葉に、解毒剤があるからと言って、毒薬を飲むべからず的な言葉や1000人殺せば浄土へ行けると言われ殺せるか?読めば読むほど刺激的で、悩んで苦しんで考え抜いてを伺えるところが本当に面白いのです。

 

HANAKO 掲載 美人百花掲載