太浦綱のブログ -4ページ目

太浦綱のブログ

ブログの説明を入力します。

「終戦の時、彼は中学四年だった。戦争末期の空襲下の動員中から戦後へかけて、とげとげした顔つきで、教師に殴られないことと、『食べること』しか考えなかった日々の記憶が------とうの昔に消え失せてしまったと思った記憶が、まだ生きていて、反射的によみがえってきたのが、ふしぎだった。リュックを背負い、重い体をひきずって、鈴なりの汽車のデッキにぶらさがり、何キロも山奥へ歩いて、父といっしょに農家に卑屈に懇願し、やっとごろごろ重い腐れ芋をリュックにいれて帰り------お芋だ、お芋だ、今夜はごちそう、とその夜だけはしゃぐ色つやのわるいやせこけた幼い弟妹たちの声と、自分はいつも皮やらへたばかりこっそり食べて、お母さんはいいの、おなかいっぱい、おまえたちおあがり、と疲れた微笑を浮かべていた母親の、青黒い、栄養失調の明らかな徴候の見られる顔が、その夜だけいそいそとかがやくのを想像しながら、往きよりどすんと重く肩にめりこむリュックに、歯を食いしばりながら夜道を歩き……。おなかすいたよう……と末の子が、悲しげにいう声が頭の中でした。その声は、戦時中の弟妹たちの声と重なった。……これっぽっち? ……何か食べるもんないの?
『やめてくれ!』
と、彼は闇の中で立ちどまり耳をおさえて叫んだ。------それでわれにかえり、思わずあたりを見まわしたが、全面節電で、常夜灯さえまばらな暗い街路に、人の姿はなかった。------もう二度と、あの声は聞きたくない。あの悪夢のような時代、地獄のような世界から、長い長い道のりを歩きつづけ、ここ十年、二十年、やっとあのころの夢を見て、汗びっしょりで眼をさまさなくなり、忘れかけていたのに……また、あれが始まるのか? あのころのことを思い出すたびに、どんなことがあっても、おれの子供たちは、あんな目にあわせたくないと思っていたのに、今また……。
「本当に、また『あれ』がはじまるのだろうか? ------と彼は暗がりの中に凝然と立ちすくんで、ぼんやりと明るい、薄雲でおおわれた夜空のかなたを見上げた。せっかく苦労に苦労を重ね、辛抱を続け、『やりたかったこと』もすべて犠牲にして、安酒に執着をまぎらわしながら、汗水たらして
会社づとめを続け……若かった妻と、六畳一間のアパートから出発し、待ち続けて公団2DKへ……子供たちが生まれ、育ち、学校へ行き、借家へ、そしてやっと元金をためて、身を切られるような思いで高い土地を買い、家を建て、銀行の借金をかえしつづけてようやく半年前払い終えた。やっと、ここまできて------この生活を築き上げるために、三十年近く重ねてきた、思い出すだけで脂汗のにじむ苦労、犠牲にしなければならなかった青年期の夢や希望、否、青春のたのしみそのものを、暮夜、ふと思い出すと、どうにもたえかねて、一人冷たい酒で、そのぎちぎち音をたてるほどこりかたまった疲労とつらい思い出をまぎらし、ときほぐすほかはなかった。生意気ざかりの子供に、その贅沢な物の使い方を説教し、ついでについ『戦争中は……』といいかけると、『関係ない』などと軽蔑したようにいわれて、カッとなって全身の筋肉が強張るのを無理におさえて、強張った笑いを浮かべ、殴りとばすのを我慢したために、いっそうみじめな、卑屈な気分になって、それをときほぐすのにまた酒を飲み------でもいいのだ。あのつらさ、あの苦しさ、人の心が一筋の芋をめぐって犲狼(さいろう)のごとくいがみあうあの地獄を味わわさないために、自分が------自分たちの世代が、多くのものを犠牲にし、苦しいことを我慢しつづけてきたのは、結局よかったのだ。子供たちに、あの地獄が、まるで想像もできなければ、理解もできないのは、おれたちががんばってきた『成果』なのだ。おれの子供は、絶対にあんな目にあわせたくない、と思い続けたことが、今、達成されたではないか、と------苦い酒を無理に流しこみながら、飲み屋のおかみにへたな冗談をいって、はしゃいだり……気分発散に、つい隣席の同年輩の者と軍歌などをうたえば、若手の『かっこいい』サラリーマンに軽蔑した眼差しで見られ------まあそれもいい。とにかく、おれは、おれたちは、頑張ってきた。そのおかげで日本もよくなった。豊かになった。子供たちに、小ざっぱりした身なりをさせて、食べたいものを食べたいだけどんどん食わせ、食べることなど気にもかけないほどの暮らしができるようになった、と酔歩の中で一人いいきかせ……完成した『自分の家』の前で、ばんざいを叫んで女房に怒られ、子供のひんしゅくを買ったりした。それが……。その『やっと豊かにととのってきた暮らし』が……また一場の夢と化し、この先、眼前に、またあの『悪夢と地獄』がはじまろうとしているのか?」------小松左京『日本沈没(下)』第五章「沈み行く国」より
おかえり。