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太浦綱のブログ

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「カントの批判哲学」とかの批判なんで皆さんが考えてる批判とはちょっと違うかもしれないです。すいません(汗)
なんか、「労働力」って言葉の問題だと思った。ドイツ語でどう言うか知らないけど、要は「労働力を力(Kraft)だと思ったときに力と法則の弁証法が働くよ」っていう発想なんじゃないの。そう思った。
「力と法則の弁証法」というのは、例を挙げていえば「雷は電気現象である」→「雷はプラス電気とマイナス電気のあいだの電気力である」→「雷はマクスウェルの電気法則の現象である」という弁証のこと。雷が電気現象として把握されているあいだ、雷において働く電気力のプラス・マイナス性は抽象的な法則にとどまっている(ぼくの好きな松岡正剛さんの好きな美輪明宏さんの本に『ああ正負の法則』というのがある。買ってください)。
いっぽう、雷を現象として認識しだしたとたんに働く「説明」というプロセスでは、電気力のプラス・マイナス性が現実的なものとしてとらえられる。中学時代、雷が地上のプラス電気と雷雲のマイナス電気とのあいだの放電であるという説明に夢中になった人もいるのではないだろうか。そうでなくとも、科学の香りにちょっと頭がクラ~っとなって理科室を出たに違いない。
この「説明」というプロセス、一般的には「電気現象を解釈する科学者のアタマの中のプロセス」と考えられることも多いと思うけど、ヘーゲルの考えでは、電気現象の説明は電気現象そのものと同じくらい現実のプロセスだ。それを説明するのに、ぼくたちが「生のままの電気現象」と思っていることそのものをよく考えてみよう。
それは、「雷様の前でおヘソを出しているとおヘソを取られる」とか、「雷に撃たれるのは仏罰が下った」とか、「雷はゼウス(デウス?)の怒りだ」とかいった、別の種類の説明、いわば「逆倒された説明」と密接に結びついたかたちでしか存在できないのではないだろうか?ぼくの議論に賛成か反対か、みなさんでよく考えてみていただきたい。
だから、ヘーゲルによれば、ぼくたちの経験に直接に与えられた電気現象も、説明というプロセスのなかの電気現象も、ともにアタマの中のプロセスにすぎないともいえる。では、アタマの外にあるのはなんなのだろう。それは、「力と法則が統一されているゆえに、絶対的に現実的なプラス性・マイナス性の法則」、あるいは「力と法則が統一されているゆえに、絶対的に現実的なプラス性・マイナス性の力」というものだ。
つまり、「現実的な現象」「アタマの中の説明」という二つがそれぞれプラス性・マイナス性と解釈され、しかもプラス性・マイナス性が(たとえば、現象のなかで)一致することで新しいプラス性・マイナス性が(たとえば、説明のなかで)できるという融合と分裂の終わらない繰り返し、それが電気現象そのものでもあるし、電気現象の説明でもあるという新しい理論、これが力と法則の統一なのだ。
ちょっと、ぼくも考えながら説明したけれど、はっきりいってマルクスが「労働力」というものについてここまで深く考察できたとは思えない。皆さんはどう思われただろうか。では、あとは表沙汰で!