前回からの続きです。
中学受験をどうしてするのか?
親が中学受験に求めるところの本質は、
高い偏差値、有名学校合格。
子どもがそうであれば、素直に嬉しいものです。
ですけど、その嬉しさの陰に親の心の闇があると思うのです。
それが承認欲求。
子どもが優れていることを自分の功績のように感じる心です。
子どもが優秀であれば、
「貴方の子どもはとても賢いですね」
と言われて、少なくとも嫌な気持ちにはなりません。
「そんな賢い子、どうやって育てたの?」と聞かれたら、「
もちろん勝手には育っていません。
塾に行かせて、英語教室に行かせて。
休みの日は博物館や体験型の学習施設に行ったり。
子どもに色々やらせているはずです。
親がこういう子育てをしたから、
それを親自身の評価として少なからず感じてしまう。
だから、成功者の方法を真似しようとします。
「偏差値30から東大合格」やら「子供何人も東大合格」、「東大卒の親による子育て」などなど。
そういったお話が巷に溢れていますが、どうしても親はそういう言葉に引き寄せられてしまいます。
「東大」「京大」「医学部」「弁護士」などなど
よくあるキーワードですが、それがあることで理由もなく正しいことのように聞こえてしまう。
その人たちのいう話であれば間違いないからとつい信じてしまってそれに倣おうとします。
それがいいのか悪いのかはさて置き、それらに共通することが一つあります。
「子どもが勝手に育ったから、親は何もしてません」
そりゃそうです。
だって、親が何もしていないのなら、他の親がそれを見て学ぶところが何もないってことですから。
そんな内容であれば誰も興味がないので、そもそも見向きもしません。
巷に溢れている体験談の多くは、
こうするといい、ああするといい。
それに従って、子どもを優秀にしようとするのです。
「親子二人三脚の中学受験」なんて言葉があります。
憧れました。
分からないことを教えて支えながら、
親はそれを支え、子どものためにと奔走する。
そんな夢を見ていました。
しかし、夢は寝て見るものです。
成績は全く上がらず。
成績が下がっても子どもは時間ができると遊んで勉強しない。
分からないところを補うためにと、半端な問題集が増えていく。
分からないところを教えても途中で欠伸をしたり遊び始める。
成績が下がるのは子どものせいだと思い込み、親が悪いとは省みない自分。
怒鳴り声と泣き声が止まない環境の出来上がりです。
親子二人三脚になぜ憧れたのか?
全てが終わって、落ち着いて考えると理解できました。
子どもの成績が上がっていくことを、
子どもの頑張りを自分の実績としたかっただけなんです。
子どもが凄いのは親のおかげなんだぞ、って。
親の支え方が凄いからこそ、成績が伸びました。
親のやり方通りにすることで、偏差値が高くなりました。
さらに言うなら、自分のやり方を教え込むことで、
自分は凄いんだぞ、って。
もちろん、親の言うことを聞かずに成績が高くなってもいいのです。
我が子が優れているということも、
子どもという存在を利用して、
親子二人三脚と言ってるのは親だけでした。
子どもにとってはただの足枷ですね。
親自身の承認欲求を満たすために中学受験がある。
さすがにそこまで言ってしまうと極論かもしれません。
ですが、中学受験の沼にハマってしまった身としては、
子どもが得たものを、全て親のものとして振る舞いたかったのです。
ですけど、成績が上がったのは親のおかげではないです。
ただ、子どもが頑張ったからです。
成績を上げたのは子どもであって、親ではないのです。
同じことを大学受験生相手に言えるでしょうか?
そんなこと言ったら、子どもから冷たい目をされます。
自分の頑張りを勝手に使って威張るなとなります。
小学生という親の保護下にあるのが当たり前とされている存在だか
奪い取れるからこそ、「二人三脚の中学受験」に憧れてしまうのです。
周りの人に凄いと言ってほしい、いいねと言ってほしい。
他の子より優れている我が子であってほしい。
親自身がそれを素直に認めようとしません。
そして、子どもを理由にします。
子どもの将来のため、子どもの幸せのため。
子どものためと口ずさめば全てが許されると思ってしまっている。
厳しくしているのは、子どもの将来のためだから。
子どものために心を鬼にして、成績を上げる努力をさせるんだ。
違います、親の承認欲求を満たすためです。
子どもは何一つそんなことを望んでいません。
親の顔色を見て、
その嘘は子ども本人を蝕み、
自分が望んでいることだからと思い込み、
そうして上がった成績に親は充実感を得るのです。
そもそも、子どもの成績は親の評価と全く無関係です。
なのに、それを一緒のように考えてしまっています。
子どもの評価が、親の評価として扱われすぎるのです。
そして、子どもの成績を自分の承認欲求の道具にしがちとなる。
「親塾」はその道具に丁度いいんです。
子どもの成績を上げたいがために、必死になって教えようとします。
子どもが教えてと言わないのに、分からないままでは駄目だと教えます。
自由時間があれば、遊びよりも勉強を求めます。
成績が上がれば、良かったねと言いながら親の方が達成感を感じます。
成績が下がれば勉強不足だと責めて、
子どもの成果を自分の評価とし、そこに価値を見出してしまう。
子どもは誰にも認められず、
子どもに辛い思いをさせたくないからいい学校に入って欲しいという
子どもの成績だけが気になるようになり、
子どもを理由にして、
それに親は気付くことはありません。
だって、親は子どものためにと思っているから。
子どもにとって厳しく接することも、
自分のためではなく子どものためだからと、
「子どものため」
この言葉を使い始めたときは、
親が間違いを犯していても気が付かせなくしますし、気づいても引き返すことをできなくしてしまう。
親の承認欲求の犠牲となっていても、「子どものため」と思っていれば何もかもが許されると感じてしまう恐ろしい言葉です。
本当に子どものためなのか、実は親のためのものではないのかと、
そんな子育ての当たり前を、今更ながらに気が付きました。
ただ今更ながらでも、これに気が付いたことは良かったと思っています。