故人AIサービスとやらがニュースで流れていてびっくり。
しっかり見たわけではないので、おおまかに言うと二年前に亡くなった奥様と
週に二回。子供の教育とかについていろいろ話をしているお医者様がいらっしゃるとか。
これを故人の立場と残された立場で考えたらどうなるかと思った時、自分もかつて夫を亡くした身であったことに思い至りました。
誤解されては困りますが、私は今も亡夫を愛しておりますし、そのことを家人も理解しております。そして家人のことも大切に思っております。←ここは本人に言ったことはありませんし、たぶん言わないだろうと思いますが。
亡夫のことは息子や娘ともよく話しますし、その場に家人もおります。家人と二人で話すこともあります。もちろんいい人という時もあれば、あれはないよねと言う事も。つまり、生きていても死んでいても、亡夫はそこにいる・・そんな感覚です。
となれば、私と家人の関係は今はやりの「不倫」
なんてロマンチックな、しかし私に不似合いな響き(笑)![]()
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余計なことはここまで。
自分が死んだあと、こうして思い出してくれることを望むか望まないかと問われれば私は望みません。亡くなる年齢にもよるでしょうが、私は生きている人の記憶の中に残るまでの時間存在していればそれで充分です。
繰り返し、呼び出されて追慕されても死した私には判りません。
もしも、判ったとしても、残された人が幸せならともかく、死んだ自分を求めているくらいですから、幸せではないのでしょう。そんなことは知りたくないです。
そもそも死は「無」だと思っていますから。
これは今の私が辿り着いた処です。
青森のイタコさんに逢いに行こうかと思ったこともありました。ビデオで再生してみようかと思ったこともあります。夢で逢いたいと思ったことも。(今まで一度も出てこないですけどね)
それらが終わって、いまの私はそういうことに意味を感じなくなりました。
亡夫も。私が生きている間、子供らの記憶にいる間だけその中で生きていればいいのです。もち私もです。
泣いて過ごした時間はその時、永遠かと思いましたが、思い返せばそうでもないです。だとしたら、死は「終了」ですから「再生」の必要はありません。
もし、不慮の死を遂げた身内を呼び出しても、今の自分には何もしてあげられません。回避することも、止めることもできないのなら、亡くなった人の悔しさや心残りをどうしてあげることもできない無力感に苛まれるだけです。それは生きている身にはつらい。![]()
それぞれの状況や環境によるとは思いますが、誰かの死を乗り越えることは、自分の一生の中で一番つらいことなのでしょうから、それを乗り越えたらもう振り返らないことが、振り返らせないことが真の優しさであり、心得であるかと私は思っています。
乗り越えられない人が、もがきの中でAIを求めることを否定はしませんが、それでは乗り越えられないのでは・・と思ってしまいます。
だから、芸能人の方が亡くなって、追悼番組や故人の作品を放映すると、ご家族は見たくないたろうなと思います。
亡くった人は、その人を思い出す人のものだけです。
形も声も感触も、自分だけのものでいいのです。それが形になって目の前に現れたらそれはもう私だけのものではありません。
私はもう子供に残す言葉は何もありませんが(もう十分言い尽くしてあります。これ以上は彼らも聞きたくはないでしょう)自分の死後のことは書き残すつもりです。
彼らも、あれほど書き散らかす母親が何も残さず死ぬはずがないとおもって探すでしょうから、判りやすいところに置いておきます。
日記の処分も頼んでおかなくてはなりません。笑絶対読むなよと言い残して(笑)
・・読んでも彼らの得になることはなにもありません。
そして最後に「お金はありません。思い出だけの母親でごめんね~」とでも
書いておこうかな(笑)
そんなことを考えていると、日々はなかなかのものです。
「ボクはキミが逝ったらすぐに後を追うよ」なんて言ってた家人ですが
「あらそお。じゃ来なかったら迎えにくるわね。三日後? 一週間後?
と、聞いてみたら返事はありませんでした。
そーよね。そんなもんよ。。。
バリの寺院です。何時間か毎にこのおばさんが扉を開けて出てきます。
そしてなにかお祓いをしてくれます。異国の民にも御利益はあるでしょうか。
