大粟神社宮司です。




腰宮葛倉神社。

こしのみやくずくらじんじゃ

です。「こしのみや」さんと地元に親しまれる神山の小学校の隣に鎮座するお宮です。


腰宮はしかし、ただの地域の神社ではありません!


阿波の国霊であり、食物の偉大な女神様自らがお定めになった唯一の本宮である、
国内でも稀有な大社、

上一宮大粟神社

の正統なる摂社です。

大粟神社の神話では、
伊勢国から八神を率いて女神様が粟に降臨しました。

八神とは、神話や神領村誌によると以下の神々になります。

八神は大神の直属の神の為、神社には尊称がつきます。


腰宮 葛倉神社

須佐宮 八坂神社
(すさのみや やさかじんじゃ)

刻宮 津々姫神社
(ときのみや つつひめじんじゃ)

斎宮 倭姫神社【白桃妙見神社とも】
(いつきのみや やまとひめじんじゃ)

星宮 妙見神社
(ほしのみや みょうけんじんじゃ)

開宮 皇道神社
(ひらくのみや こうどうじんじゃ)

治宮 皇子神社
(しらすのみや おうじじんじゃ)

穂宮 葦稲葉神社【若宮神社とも】
(ほのみや あしいなばじんじゃ)

以上八社を

大粟八神と尊称し、

大神を守護する特に重要な神々として摂社としています。


なお、大粟神社には
八神を超越する別宮と呼べるお宮があります。


阿閇宮 上角八幡神社
(あえのみや【あべのみや】うえつのはちまんじんじゃ)

八神を率いて降臨した光り輝く絶世の美女である女神様を迎えた太古の粟の王子です。

神話では、山の仕事をしていた、とされますが、太古の大粟山は鮎喰川がもっと深くて、まるで大粟山は島のようになっていたといいます。

大粟山とは実は山の所領全体をさす中世の用語であり、
徳島の方には分かりやすいのですが、
入田町あたりが大粟山の入口で『田口』です。
そう、いまの一宮神社あたりが田之口(入田)であり大粟山の入口でして、
大粟山(神山)は、古代は海上交通が盛んな地域と考えられます。


阿閇宮の神は、彦火火出見神。山幸彦さまです。
大和の神話ではまさに皇子であり、さらには豊玉姫神と結ばれるため、海洋民族との関わりを示唆する神です。

粟の太古の神は、聖地大粟山自体です。

山自体を偉大な神としますから、神社など存在せず、山頂の天辺



神籬(ひもろき)祭祀をしていたはずです。

天辺に、聖なる木に神さまを巫女が下ろして祭祀をする太古の神道祭祀です。


太古の粟の神は

宮司家の祖神として
宮司家の屋敷内の神社で祀られていました。

祭神を大物主神、または大山祇神とします。


大物主神は、
言わずと知れた出雲大国主神の別神格で、
大和の三輪山の大神。

大山祇神は、
伊予一宮。

共通するのは、
山と海。

両者とも山を表しながら、海の信仰があります。
大粟山も全く同じなのです。


大物主神の皇子神に事代主神がいらっしゃる。
事代主神は、
なんと阿波、伊豆、安房などに伝わる神話では、大宜都比売大神の夫とされます。

出雲神話でも羽山戸神と大宜都比売神が婚姻し、八柱の神を生みます。
ハヤマト神は音楽で比喩をすれば事代主神の神話における「変奏曲」にも見えます。



宮司家は
太古に女神様と出会い、女神様と聖なる契約を交わした始祖の末裔とされます。

聖なる契約とは、

女神に始祖阿閇御祖神(あへのみおやのかみ)が、清浄な水で炊いた米を供して女神を迎えました。
女神は始祖に感激して、始祖の神になると約束しました。そのかわり、始祖に永遠に自らの食事を奉ることを命じ、唯一の資格をもつ証として聖なる柄杓を始祖に授けたのです。

始祖はこれにより、女神の最も重要な神となり、女神を迎えたのです。

宮司家は太古から大粟山の入り口に居館を構えていました。

大鳥居がある

古祀場(ふるしば)

と呼ばれるこの場所から西上角一帯は、阿閇氏の居館であったようです。

女神様は、

大鳥居すぐそばの

装束谷

という上角谷川で身を清め、斎服に着替えて天辺へ上がり大物主神を祀りました。



阿閇氏との約束により、阿閇氏の女神となったいう神話は、この神話の続きから史実反映史観から考えると、

阿閇氏の姫となり、
阿閇氏の神を巫女として神下ろしをして祀ったと思えます。

姫巫女であり、

光り輝く絶世の美女が神を天辺で祀ったのですから、太陽のように神々しい美しさであったでしょう。

阿波の太古の女神が、オオヒルメ、すなわち天照比売大神とされるのは大粟神社の正統記から説明できるわけです。


大粟山の入口に一族を代表する人物(始祖)の居館があり、その末裔が神器を受け継ぎ、さらには大物主神を遥拝するために邸宅内に代々神社を祀り、大物主神と姫神を祀るだけでなく、八大神を合わせて祀っていました。

山の入口、すなわち山戸(山門)に大粟姫(粟国の姫さま)の居館があったのです。

大粟姫は、八神とこの地にやってきたときには馬に乗っていた、としますが
事実は船に乗ってきたのでしょう。

あくまで文学的な解釈ですが、
太古の粟の一族とゆかりの深い彼方から一族の近親やきょうだいと共に姫さまがやってきて、
美しい姫さまは

粟の若い王子と運命的な出会いをしたかもしれません。




腰宮は、

八神のうちの一柱、葛倉神が治める宮です。
神話では姫さまが腰かけた場所だから腰宮とも伝わりますが、
同時に姫さまの夫と伝わる事代主神の鎮まる場所でもあります。

事代主神とは、、

大粟神社の神話からたどれば、

粟の皇子です。

そして、大粟姫と結ばれる可能性がある皇子は、やはり浦島さましかおりません。



阿閇神。
上角八幡神社の御祭神は、
山幸彦であり浦島さま。

今でも、大粟神社の例大祭は、大粟さんの旦那さまを八幡さんへ迎えに行くと氏子伝承は伝えます。

大粟さんとは大粟姫。
山幸彦さまの后神は、豊玉姫神です。



大粟神社は山と海の神話が伝わります。

大宜都比売大神は、
古事記ではスサノヲ神に殺害され、五穀の女神様となります。

また、豊玉姫さまも山幸彦さまと離れて暮らすことになります。


私も宮司となり、阿閇宮でお祀りを重ねる中で初めて知ったのですが、阿閇宮本殿には三座が祀られています。

阿閇神、若宮、そして

津津姫神

です。

津津姫神は、
刻宮の祭神。八神の女神様が
なぜか若宮とともに阿閇宮に鎮まるのです。

この祭祀の事実から

津津姫神は重要な女神様であり、
大宜都比売大神と関わりが深い女神様とわかりました。

おそらくこの女神は、

大神の妹神ではないか。

上角(上津野)をあらわす津の姫という神名。そして、宮司家の伝える秘書ともいえる神名帳に阿閇神とともに記載される女神であることから、
津津姫神も阿閇氏の女神と考えられます。

阿閇神と大宜都比売大神との関係はまだわかりませんが、阿閇宮に鎮まる若宮が、神領では分祀されていき、中津や北、そして、どうやら腰宮とも関係があるようです。



八柱の神と降臨した
絶世の美女である輝く姫は、選ばれし使命のために偉大な女神となり、
全てを守護する大神となられた。

大宜都比売大神

の誕生です。

大粟神社の創建は実はこの時ではないか。

八神と何よりも阿閇神が
女神を守護するために作り上げた聖地が大粟山ではないか。

「大宜都比売大神」の
妹である津津姫神は、
その後、ひょっとすると
姉神の意志を継ぎ、「上津野」の姫となったのかもしれません。

大粟神社の神道は、

いかなることがあっても

大宜都比売大神をお守りすること。

始祖と姫神さまが誓いあった約束を永遠に護る。

永遠に
姫君を護る
阿閇神の神裔の証(神器)と、
阿閇神の意志を継承する人々(氏子崇敬者)
八神の御霊(祭祀)が大粟神社に漲るとき、
女神様は真にお力を発揮する。

大粟神社が力を取り戻しはじめているのは、
まさに阿閇神と大神の神道を
ようやく我々自身が取り戻したからに他なりません。

さまざまな運命に翻弄されながら、
ようやく、阿閇氏の

神器を受け継いだ現宮司は

このように解釈しています。


腰宮の祭神事代主神の背景には

太古の王子と姫君の物語があるやもしれません。




腰宮宵宮の夜。
月が美しかった。

まだまだ静かな宵宮。

しかし、宮司をはじめ氏子一同、
事代主神さま、大宜都比売大神さまへの誠の信仰が漲っています。


信仰は試される


何もない所から
何十年にもわたり、腰宮の灯りを灯し続けていただいた長老の皆さまがた。

我々若い世代に神道を継承してくださいました。

若い私たちは、
先人の信仰を受け継ぎ、
一つ一つ、神の宮を盛り上げていきます。

ただ、賑わっているのでは
神道ではありません。

腰宮には
祀らねばならない神道があり、
事代主神への確信があるのです。

それが

上一宮大粟神社

です。
我が大粟神社は
誠の

神道

がみなぎります。

難しい理論は後回しでよいのです。

しかし、

我が女神様が

阿波そのものとして
徳島全てをお守りくださっている。

また、食物を全ての人類のために生み出す偉大な女神として人類をお守りくださっている。

だからこそ、
私たちは
女神様を永遠にお守りする

この確信と覚悟を

宮司は全身全霊を持って
我が大粟神社を頂点とした神領の全ての小社に至るまでに漲らせるために
神学を深めております。


明日の本えびすは
朝9時ごろよりはじまります。

全ての方々に
腰宮を
知っていただき、
阿波の上一宮とご縁を結んでいただきたく思います。


どうぞ、神道がみなぎる

徳島県
神山町

へお越し下さい。