最近、「前提」を疑うことの重要さというのを身をもって感じます。先日、大学のゼミでの発表がありそのことをとても強く感じました。
私たち、特に日本人によく見受けられる思考・行動の動機として「何となく」「常識」「当たり前」といったものがあります。簡単にいうと何か行動をするときに「なぜそれをするのか?」と問うたときに殆どの人が「みんながやってるから」「理由などない」といった非常に曖昧な答えが返ってきます。
つまり、日本人はハイコンテクストの国(言語化に重きを置かない)の為、喋らないことが美徳とされがちで「暗黙知」が広く共有されています。以心伝心や一を聴いて千を知るといった言葉のようにあまり語らずとも共感することができることはもちろん強みであり、日本の誇れる文化でもあります。
しかし、今日においてハイコンテクストだからといって当たり前を疑わない考え方では通用しない状況に立たされていると僕だけでなく多くの日本人の方が感じていることと思います。
何か議論をする時に相手の主張の前提となっている「暗黙知」となっている部分を問うことがこれからの時代必要だと思います。
昨日のプレゼンにおいても、院生の方からの質疑の時にその事をひしひしと感じた一日でした。
私たちの発表のテーマとして、とある理論を基に「選択」の質の重要さを発表したのですが、そこで院生の方が指摘したのは「なぜその理論を使ったのか?」というまさに前提を問うた質問でした。この疑問は正直僕も感じていたことでもありました。
しかし、グループワークで行っているせいか、やはり「集団」の中でやっていると、この「前提」を問いただすことの難しさを痛感します。当初、論文(僕たちが発表する際のカテゴリー)を書く時は「理論」を使わなければならないという「前提」がみんなの中にありました。故になぜ「理論」を使わなければならないのか?といった所をもう少し考えるべきだったと今では反省しています。
院生の方の質問はかなり鋭く、イシュー(問題の本質)を捉えているなと、とても驚きました。
私もこの院生の方のような鋭い視点を持てるような人になりたいと思います。
私たち、特に日本人によく見受けられる思考・行動の動機として「何となく」「常識」「当たり前」といったものがあります。簡単にいうと何か行動をするときに「なぜそれをするのか?」と問うたときに殆どの人が「みんながやってるから」「理由などない」といった非常に曖昧な答えが返ってきます。
つまり、日本人はハイコンテクストの国(言語化に重きを置かない)の為、喋らないことが美徳とされがちで「暗黙知」が広く共有されています。以心伝心や一を聴いて千を知るといった言葉のようにあまり語らずとも共感することができることはもちろん強みであり、日本の誇れる文化でもあります。
しかし、今日においてハイコンテクストだからといって当たり前を疑わない考え方では通用しない状況に立たされていると僕だけでなく多くの日本人の方が感じていることと思います。
何か議論をする時に相手の主張の前提となっている「暗黙知」となっている部分を問うことがこれからの時代必要だと思います。
昨日のプレゼンにおいても、院生の方からの質疑の時にその事をひしひしと感じた一日でした。
私たちの発表のテーマとして、とある理論を基に「選択」の質の重要さを発表したのですが、そこで院生の方が指摘したのは「なぜその理論を使ったのか?」というまさに前提を問うた質問でした。この疑問は正直僕も感じていたことでもありました。
しかし、グループワークで行っているせいか、やはり「集団」の中でやっていると、この「前提」を問いただすことの難しさを痛感します。当初、論文(僕たちが発表する際のカテゴリー)を書く時は「理論」を使わなければならないという「前提」がみんなの中にありました。故になぜ「理論」を使わなければならないのか?といった所をもう少し考えるべきだったと今では反省しています。
院生の方の質問はかなり鋭く、イシュー(問題の本質)を捉えているなと、とても驚きました。
私もこの院生の方のような鋭い視点を持てるような人になりたいと思います。