三蔵法師ってどんなひと? | 岡本一志 幸せのタネまき日記

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≪三蔵法師ってどんな人≫

前回はお経とは七千冊以上もあり

それは、お釈迦様の教えていかれたみ教えを
弟子が書きのこしたものである

そしてそれは死んだ人のためでなくて
生きている私たちに説かれたものであることをお話ししました。


さて、お釈迦様はインドの方ですが
私たちが今日知っているのは漢文のお経です。

インドの昔の言葉で書かれたお経が

中国に渡り、漢文に翻訳されたのですが
そこで活躍したのが三蔵法師という人たちです。


三蔵法師というと

玄奘(げんじょう)三蔵

と孫悟空たち 

西遊記を思い出す方も多いのでは・・

おかもんは

なくなった夏目雅子さんの演ずる

玄奘三蔵がすきでした。

あの玄奘は何のために旅をしていたかというと

インドに行ってお経を持ち帰るためです。

そしてそのお経を中国語に翻訳するためだったのです。

ですから

三蔵法師とは

インドの言葉で書かれた仏典を

漢文に翻訳することを専門とした

お坊さんのことをいうのですね。

ですから玄奘以外にも、たくさんの人が

経典翻訳に命をかけています。

それが戯曲化されたのが西遊記です。

ちょっと詳しくお話ししましょう。



「三蔵」とは元来、「経」「律」「論」の三部からなる仏典の総称である。
転じて「仏典に精通したもの」の意。


中国では、経典翻訳僧の敬称として用いられ、
「三蔵法師」ともいわれた。
「三蔵法師」とは、ひとり玄奘にのみ冠される敬称ではないが、
三蔵法師といえば玄奘を指すほど、彼は傑出した存在であった。

→玄奘は男です 女性ではなかったんですね。

玄奘は、今から約千四百年前、中国の洛陽で生まれた。
十歳の時に父を亡くし、仏門に入っていた兄にひきとられた。
十三歳で、正式に僧籍を得て、仏教の学問に没頭する。

玄奘は大きな疑問にぶつかった。釈尊のみ教えは一つなのに、
なぜ、これだけ対立する学説が飛び交うのか。その根拠を仏典に求めると矛盾するものが多い。
高僧と呼ばれる人たちは、真の仏意ではなく、自説をほしいままにしているのではないか。彼の懊悩は深まるばかりであった。

そこで玄奘は、今こそ天竺に赴いて疑問をただしたいと考えた。
彼は数人の同志とともに、インド留学の許可を政府に求めたが、
当時、唐は西域との交通を許していなかったので、却下されてしまった。
二度、三度、繰り返し嘆願書を出したが、いずれも失敗に終わった。
同志はあきらめたが、玄奘だけは心中深く期するところがあった。

ついに彼は、国禁を破って、インドへ一人、旅立った。

26歳の決断であった。
「玄奘を捕らえよ」という通達が、各地へ飛ぶ。彼は、昼は潜伏し、夜はひたすら道を急いで、西へ進んだ。

ゴビ砂漠の通過が、一番つらい旅で、道案内人に命を狙われたり、
砂漠の中で渇死しそうになるなど、さまざまな苦労を重ねて、やっと西域の一国に着いた。

中国の長安から俊才の青年僧がやってきたという噂は、たちまち広がり、
高昌国の王は、直ちに駿馬数十頭からなる迎えの使者を送ってきた。

国王は、玄奘の学識、人格にほれこみ、彼を自国に引き留めようとした。
つまりインド留学をあきらめ、高昌国の仏教の国師になってほしいというのである。

しかし、玄奘は断食して求法の固い決意を示したので、ついに王は出国を許した。
ただし出発前一ヵ月間、仏教の講義をしてほしいと請うた。そこで玄奘は喜んで国王や側近たちに仏法を説いた。

一ヵ月の後、王は四人の従者と莫大な旅費を玄奘に贈った。

苦難を重ねて、インドについた玄奘は、各地の大徳について研学に励み、彼の名声は次第に高くなった。

四十歳になった玄奘は学び終えた大乗仏教の教えを中国に広めたいと、帰国を決意。
収集した経典の輸送には馬二十二頭を要し、困難を極めた。
インダス川を渡る際には、一隻の川船が転覆し、五十巻の経典が失われた。
そこで玄奘は、五十日間滞在して失った経典を書写するハプニングもあった。
645年1月、彼は、17年ぶりに中国の都・長安へ帰り着いた。

玄奘は直ちに、国王に面会し、持ち帰った経典を正しく漢訳し、中国仏教に正法を確立したいと、
国家援助による経典翻訳の許可を求めた。王は、彼の、命をかけた求法の旅に感動し、長安に翻訳所を設置した。

どんな天才が出現しようと、経典の翻訳は個人レベルで成し遂げられる事業ではない。
すぐれた学僧を多く集め、彼らに生活を保障し、ありとあらゆる参考文献を集め、それを収容する設備を用意しなければ、成すことができなかった大事業なのである。

長い中国の経典翻訳史を通じて徐々に形成された翻訳所の組織と役割は、次のようなものであった。

(1)証義……翻訳された個々の言葉(中国語)の意味に誤りがないかを考証する役。サンスクリット語にも通じていなければならない。

(2)綴文……訳された個々の中国語を明確な文章としてつづる役。文章の上手な人でなければならない。

(3)字学……サンスクリット語に対する適切な音写文字を決める役。

(4)証梵語梵文……訳された中国語がサンスクリット原文に一致するかどうかを考証する役。

(5)筆受……中国語に訳された言葉の語義を確認しながら筆記する役。単に耳から聞いて書写する役目ではなく、サンスクリット語や中国語に通じて

いることはもとより、広く仏教の教義全般に通暁した人でなければならなかった。

 まず、翻訳責任者・玄奘が、敬ってサンスクリット語の仏典を中国語に訳す。

彼の側近の者が、これを「筆受」し、さらにそれを「証義」「字学」「証梵語」の担当者の手を経て、最終的には立派な文章の形態になるように「綴文」する。このように、玄奘から五段階の過程を経て翻訳文が確定され浄書されると、政府高官の監閲を受けて公開される。

 玄奘には、全工程の指導監督はもとより、原文校訂の仕事が課せられていた。伝記は、次のように記している。

「玄奘は、もっぱら翻訳に努め、片時も無駄にすることはなかった。毎日、自ら日課を定め、もし昼間所用があってそれが果たせない場合には、必ず夜に持ち越して続け、十一時を過ぎてから筆をおき経典を収め、さらに仏を礼拝し勤行をなして、夜中の一時になってからしばらく眠り、五時には再び起きて、サンスクリット原典を読誦し、朱点を次々に加えながら、明け方から、訳す個所を推し量った」 このように、寸暇を惜しんでの努力があったなればこそ、翻訳も、まれにみる速度で進行していったのである。玄奘が翻訳した経典の総数は千三百三十五巻に達した。翻訳着手から終了までの十七年六ヵ月で単純に平均しても、一年に約七十五巻もの計算になる。

 そして、このような速さにもかかわらず、玄奘訳が正確で統一のとれた訳文を保持しえたのは、玄奘の翻訳所に列した人々の学識のレベルが高く、そのレベルが、各職務において首尾一貫して守られたことによるものといわれている。 経典には、翻訳者の名前がハッキリ記されている。彼らの業績は、釈尊のお名前とともに、永遠に輝き続けるだろう。

 中国の隋・唐時代に花開いた仏教文化は、着実に日本に輸入された。中国へ命懸けで経典を伝えた三蔵法師の活躍がなければ、日本は仏教国たりえなかった。



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