マイミクのくろすけさんから こんな情報提供がありました。
僕もよんで納得だったので使わせてもらいます。
村上春樹の
「スプートニクの恋人」より
物語の主人公ではなく、物語の語り手 [ぼく] が自己紹介するところ >>
ぼく自身について少し語ろうと思う。
しかし自分について語ろうとするとき、ぼくは常に軽い混乱に巻き込まれることになる。
「自分とはなにか?」とゆう命題につきものの古典的なパラドックスに足をとられてしまうわけだ。
つまり純粋な情報量から言えば、ぼく以上にぼくについての多くを語ることのできる人間は、この世界のどこにも
いない。
しかしぼくが自分自身について語るとき、そこで語られるぼくは必然的に、語り手としてのぼくによって
―その価値観や、感覚の尺度や、観察者としての能力や、様々な現実的利害によって―
取捨選択され、規定され、切り取られていることになる。
とすれば、そこに語られている「ぼく」の姿にどれほどの客観的真実があるのだろう?
ぼくにはそれが非常に気にかかる。とゆうか、昔から一貫して気にかかってきた。
しかし世間の多くの人はそのような恐怖なり不安なりをほとんど感じていないように見える。
人々は機会があれば、驚くほど率直な表現で自分について語ろうとする。
たとえば「わたしは馬鹿がつくくらい正直であけっぴろげな人間なんですよ」とか、
「わたしは傷つきやすく、世間とうまくやっていくことができない人間です」とか、
「わたしは相手の心を見抜くのがうまい人間です」とか、そうゆうことを口にする。
でもぼくは「傷つきやすい」人間が、他の人々の心を無用に傷つけるところを何度も目にしてきた。
「正直で開けっぴろげ」な人間が、自分では気がつかないまま都合の良い
理屈を振りまわすところを目にしてきた。
「人の心を見抜くのがうまい」人間が、見え透いた口先だけの追従に
手もなくだまされているところを目にしてきた。
となれば我々は実のところ自分についていったいなにを知っているというのだろう?
正にこの事かと思ったりしました。
この小説の好きなところなのです
何となく送っちゃいまーす![]()