こんばんは おかもんです。
先日 東大1年生のNくんと心と脳の問題でディスカッションしました。
Mくんはとても勉強熱心で、ぼくも時間がたつのをわすれて話に夢中になっていました。
さて、Mくんからこんなメールが届いたので
それに答えたものです。
>昨日はありがとうございました。
>昨日話し損ねた、茂木健一郎と斎藤環の往復書簡は、wikipediaの茂木健一郎の中の「批判」の項に、リンクがついています。
>
>それを読んで、今は、「人間には、感覚、感情を持つなにかしら主体というものがある。そして、
それを自分の中で想像した時、それは実際のそれとは異なるものである。」と考えています。
>岡本さんはどう思われますか?
このことはとっても意義深いことだと思います。
「感覚、感情を持つなにかしら主体」・・これが「私」だと思った瞬間に
「感覚、感情を持つなにかしら主体」が「私」だと思っている『私』がいることになります。
「感覚、感情を持つなにかしら主体」が「私」だと思っているのが『私』だと思うと
「感覚、感情を持つなにかしら主体」が「私」だと思っているのが『私』だと思っている【私】
が現れてきます。
あわせ鏡のように、これは無限に続きますね・・・・・・・・
ということは
「私」とは
私とは○○だ!!といえるものではないのです。
捕まえようよしても捕まらないのが「私」ではないでしょうか?
だけど「私」はここにいる・・・・逃げも隠れもしていない???
さて、最近 脳科学のブームで
「私」といっても「脳(神経のネットワークシステムを含めた意味で)」だ。
と分かったつもりになっている人が多いですが、
これは答えにもなっていないことが分かるのではないでしょうか。
東大の哲学教授だった 故廣松渉さん(日本を代表する哲学者)は
「心といっても脳だ」という安易な発言に対して
「じゃあ『心は脳だ』といっているのはなんだ」と切り返したそうです。
「私は脳だ」と思っているもの(思わせているもの)は何か
それも「脳」だという人がいるとすれば、自己矛盾
に気がつかない人なので、安易な人なのです。
「私は 脳 (白い豆腐のようなかたまり 下の図 )だ」
と思わせている『脳』は、「白い豆腐のかたまり 上の図」 ではないのです。
「私は脳」だと思わせているのが「本当の脳」だというと
「私は脳」だと思わせているのが「本当の脳」だと思わせているのが「本当の本当の脳」だ。
・・・・・・・・
と無限ループです。
このことは
「脳の中の小人」問題でもでてくることですが
これはまた次回のお楽しみ!!
でも、おかしなことに、
いや、おかしくない当たり前のことなんですが・・
私はまちがいなく今ここにいて、目の前の
パソコンの画面で、この文字を見ているのに
「私」を捕まえようとすると光の速さで逃げていく
でも追いかけているのはやっぱり「私」なのです。
この不思議に気がつくことが
心と脳の不思議への入り口だと思います。
同時に「本当の私」をしる第一歩だと思います。
「夜もすがら、仏の道にいりぬれば、我が心にぞたずねいりぬる」
源信僧都
「仏道を習うは自己を習うなり」 道元
「汝らに法鏡を授けるだろう」 釈尊
