麻生首相が9月25日、国連総会の一般討論演説でスピーチした内容から。
「ロンド(輪舞曲=カネに踊る人の欲望の意味)に終わりはなく、
人類は遠からず同じ旋律を聴くに違いあるまいと思います」
人類はこの数千年間で飛躍的な文明の進歩を遂げましたが
果たしてそれは 本当に 進歩 といえるのでしょうか。
文明が発達した分だけ、私たちは 幸福に 近づいたのでしょうか。
ノーベル賞受章者 アルベールカミューは次のようにいっています。
『シーシュポスの神話』
”神々がシシューポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、
ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、
岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。
無益で希望のない労働ほど恐ろしい
懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。
<中略>
今日の労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。
その運命はシーシュポスに劣らず無意味だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる
稀な瞬間だけだ。
ところが、神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは、
自分の悲惨なあり方を隅々まで知っている。
まさにこの無残なあり方を、かれは下山の間中考えているのだ。
かれを苦しめたに違いない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる。
侮蔑によって乗り越えられぬ運命はないのである。”
仏教では
賽(さい)の河原 といわれて
子供が一つ積んでは父のため、二つつんでは母のため といって
河原で石を積んでいます。積み上がればお父さんお母さんに会えると
後一歩で積み上がる直前に、どこからともなく鬼がやってきて蹴散らして
しまう。それを際限なく繰り消しているところです。
西洋東洋問わず、同じコトのくり返しの人生ほど残酷なものはないということでしょう。
真の知識にあうことも
難きが中になお難し
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなし (親鸞聖人)
苦しみ悩みの根元を教えられれた、親鸞聖人のお言葉です。
