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Oa's Report

(1)2013年4月「東北ひとめぐり」ツアー
(2)2012年2月「兄弟仁義Special「★シュウ・メイ・シキ★」@ TAKE OFF 7(東京渋谷)」ライブオフ by Oa

 気仙沼の町を歩きながら、震災当時のお話を伺う。
 お一人は、海に近い位置の病院に勤務の桑原さん。もう一人は、海産加工業の佐藤さん。

 海産加工業の佐藤さんは、地震の直後、同じ職場でも、「逃げなくてもいいんじゃないの?」という方もあったらしい。それを、とにかく避難訓練どおりやろう、と、避難を始めた。作業場は1階、携帯も財布も3階にあったが、
「すぐ戻って来られるだろう」
と持たずに出た。タバコを吸いながら歩く人もいる、というペースだったが。
「高台に上がって、振り返ったら、町はなくなっていた」

 病院勤務の桑原さんは、地震の直後、テレビをつけて、他の町を襲った津波を知った。気仙沼にも、津波は来るだろう、という前提での行動になった。病院を出て、患者さんを背負い、津波にも耐えそうなマンションの7階まで上がった。津波が気仙沼を襲ったのは、地震の約40分後だった。
 マンションのすぐ裏手で、津波火災の火の手が上がり、
「生きた心地がしなかった」
という。患者さんは、マンションから自衛隊のヘリに吊り上げてもらい、先に避難。マンションの住人は留守。3月の東北の夜を、吹きさらしのマンションの廊下で過ごし、翌朝救助された。

 この時のお話で、興味深かったのは、「銀行のマニュアルに助けられた」という一言。マニュアルに、「地震が来たらとりあえず避難」「車も、置いて避難」などとあったのに従ったのだという。
 もうひとつ、やや内陸にあった他の病院よりも、海に近い位置にあった病院の方が、早く診察を再開した、という話。
「海に近いから、津波の危険があることは判っていた。カルテなど重要な書類は、3階に置いていて、被害が少なかった」
 やや内陸の病院は、津波被害を想定していなかったために、書類などを1階においていて、被害を受け、診察再開までに時間がかかったのだそうだ。
 町歩きのときではなく、その後で聞いた話だが。気仙沼で最初に冷凍食品の出荷を再開した工場も、津波のリスクを考慮して、加工機を屋上に設置していたという。

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△高台から見た気仙沼。ぽつりぽつりと建っているのは、津波にも残った鉄筋の建物かプレハブ。ほとんどの家屋は、土台だけが残る。瓦礫が山積し、その間にご遺体があった震災直後に比べれば、ここまで整地された、ということなのだと思いながらも、「復興が成った」というにはほど遠いのを感じる。

[5/8修正]桑原さん、佐藤さんのお名前を入れました。ご指摘ありがとうございました。