利便と危険 1 | 鬼川の日誌

利便と危険 1

​​​​​​    利便と危険

 

  『世界は分けてもわからない』 福岡伸一 (講談社現代新書)
 青山学院大学教授(分子生物学)の本から、保存料についての章を中心に

 紹介する。                   (再記)

 

  * 腐敗と発酵

  コンビニミニストップで各店で作り売りしてたおにぎりの製造時間(消費

 期限)を誤魔化していて大騒ぎになり、しばらく販売が中止となった事件

 が記憶に新しい。


  コンビニで売られているサンドウィッチやお弁当、それを作る下請け納入

 業者に、コンビニ側が申し渡す保証期間は72時間(3日間)だそうです。
 今では日持ちするのが当たり前の感覚になってしまっているが昔はそうでは

 なかった。

  ではこれらはなぜ3日間も腐らず大丈夫なのだろうか?

  私たちの身の回りには無数の微生物が生息しています。
 微生物は栄養と温度などの生育条件が整えば急速に増殖を開始します。

  微生物は生殖ではなく細胞分裂によって無限に増えることが出来るのです。

 早い場合には20分に1回、普通でも1時間に1回は分裂でき、そのたびに

 2倍に増えます。
  ですから10時間後には2の10乗、つまり1024倍に、20時間後に

 は約100万倍、そして3日目72時間後には天文学的数字まで爆発的に

 増殖できることになります。 

  (もちろん増殖できる条件ー栄養と温度があればのことです。)   
  ** これがどれだけ凄い数かは最後の注を参照して下さい。

                
  この微生物の代謝と増殖活動の結果として、栄養分となった食べ物が腐敗

 するのです。

  つまり酸っぱくなったり嫌な匂い(タンパク質に含まれる硫黄成分に由来

 する)がするようになります。毒素が作られることもあります。

  しかし微生物の増殖プロセスという点ではまったく同じ生命現象であり

 ながら、微生物を選択し、環境を上手く整えると、腐敗現象を発酵現象に

 えることが出来ます。

  ヨーグルト(乳酸菌)、納豆、ビール、清酒、ワイン、そして味噌、醤油、

 すべて発酵現象の産物です。日本は世界的な発酵食品大国です。

  * 保存料(ソルビン酸)

  通常は3日間もあれば天文学的な増殖を遂げるはずの微生物の発育を妨げ、

 腐敗が進行するのを防いでいるのが保存料です。

  ソルビン酸は微生物の生育を妨げる、毒として働きます。それは一種の

 囮(おとり)物質として微生物の代謝に干渉するのです。実はほとんどのすべて

 の薬は、生物にとって大切な物質の囮として、ニセモノとして働いている

 のです。

  食べ物に含まれる炭水化物やタンパク質、脂質が代謝される過程で、乳酸、

 酢酸、ピルビン酸・・など○○酸と名のつくものが沢山現れ、さらに微生物

 の細胞内で代謝されてエネルギー源になっている。

  代謝とは生体内での化学反応のことです。細胞の内部で進む化学反応には、

 酵素という触媒が関与しています。一つの反応には一つの酵素が割り当てら

 れています。

  たとえば乳酸脱水素酵素は乳酸をピルビン酸に変換します。
 リンゴ酸脱水素酵素はリンゴ酸をオキサロ酢酸に変換します。

  ソルビン酸は化学式の一部が(-COOH)カルボキシル基で、沢山の

 ○○酸とおなじ構造を持っています。生体内の化学反応が進むときにこの

 ソルビン酸があると、例えば乳酸脱水素酵素は、乳酸と間違えてソルビン酸

 をくわえてしまうのです。

  つまりソルビン酸は酵素の代謝反応をブロックしてしまうのです。乳酸を

 ピルビン酸へ、リンゴ酸をオキサロ酢酸へ変換する経路がストップしてし

 まいます。

  ソルビン酸の量が相当程度あると、代謝経路の重要部分が寸断され、交通

 網全体の流れがダウンし、微生物の生育が抑制されるのです。

  だからソルビン酸を食材の中に混ぜ込んでおくと、腐敗の進行を止める事

 が出来るのです。ソルビン酸は広範囲の加工食品に添加されています。

  (ハム、ソーセージ、かまぼこなど食肉・魚肉練り製品、パンやケーキ、

 お菓子のあんやクリーム、チーズ、ケチャップ、スープ、半生の果実類、

 果実酒、飲料・・)
  食品の種類によって、重量比で0.1~0.3%の添加が認められています。

  * 人体への影響

  ソルビン酸は人間にとっては加工食品の消費期限を延ばしてくれる便利な

 薬で、微生物にとっては毒です。

  ソルビン酸は食品に添加される程度の濃度では、人間の細胞に対しては毒

 として作用しません。人間と微生物とでは代謝の経路やそれをつかさどる酵

 素の仕組みが異なるからです。
 
  それから本来代謝の邪魔になるようなソルビン酸のような物質を分解除去

 する解毒の仕組みも人間のほうがずっと優れています。

  ソルビン酸の毒性については科学的にラットやマウスを使った実験で、

 急性の毒性や慢性毒性の検査が行われています。
  動物実験がそのまま人間に当てはまるかどうかは一概に断言できませんが、

 少なくともラットとヒトは同じ哺乳類であり、栄養素の代謝の仕組みや毒物

 の解毒の仕方もほぼ同じですし、少なくとも微生物とヒトとの隔たりよりは

 小さいと考えられるからです。

  急性毒性や慢性毒性のテストでは、食品に添加されている程度のソルビン

 酸の量に害作用はないと判定されています。しかしこれらの観察では死ぬか

 どうか、病気になるかどうかなどのドラスティックな害作用についてです。

  細胞のレベルでも問題ないといえるのかという点に関しても科学者は

 「インビトロの実験」(試験管内での実験)をやっています。ヒトの細胞に

 対して様々な生化学的なアプローチを直接行うことが出来るのです。
  これも添加されているソルビン酸の量ではヒトの細胞に対して害作用を

 及ぼしているデータはなく、安全が確かめられています。

  * 腸内細菌との共生

  確かにソルビン酸は食品に添加される程度の量であれば急性毒性や慢性

 毒性だけでなく、細胞のレベルでも毒にはならないことが証明されています。

  ところで人間とはどのように生きているものなのでしょうか?
 実は人間は他の生命と共生し、相互作用しながら生きているのです。

 私たち人間は生物学的な意味でも1人で生きているわけではないのです。

  人間の全身の細胞はおよそ60兆個からなっているといわれています。

 しかしヒト一人にはその消化管内に120~180兆個もの腸内細菌が巣くって

 います。つまり自分自身の3倍もの生命と共生しているのです。

  彼らはヒトの栄養素を掠め取っているだけのパラサイトではなく、無限に

 増殖したり毒素を出したりすることもなく、安定した消化管内環境を提供し

 一種のバリアーとして働き、危険な外来微生物の増殖や侵入を防ぎ、日常的

 な整腸作用を行ってくれています。

  微視的に見れば私たちの消化管はどこからが自分の体でどこからが微生物

 なのか実は判然としません。ものすごく大量の分子がものすごい速度で刻

 一刻、交換されているその界面の境界は、実は曖昧なもの、きわめて動的な

 ものなのです。

  * 見えないリスク

  ソルビン酸は実にこの不明瞭な界面にあって、腸内細菌に対して影響を及

 ぼすことによって、間接的に人体に害作用を及ぼす可能性があります。

 

  (続)