町田市の事件と「世間」1 | 鬼川の日誌

町田市の事件と「世間」1

  町田市の事件を「世間」論から見る

 

 

  

  「誰でもいいから人を殺して人生を終わりにしたかった」

 などというとんでもない理由で、しかも抵抗されそうもない人

 を物色した挙句お婆さんを殺してしまったこの何とも言えない

 理不尽な事件、しかも似たような事件「誰でもいい」と人を

 襲う事件、が最近の日本で頻発している様に思える。

  いったい何故こんな無惨な事件が起きるのだろうか?

 

  最近はあまり「世間」という言葉は聞かれなくなっているが、

 町田市で殺人事件を起こしたこの男は、まさに「世間」から疎外

 され生きる場を無くしたと感じ、絶望した男と捉えることが出来

 るのではないか。

  

  「誰でもいいから人を殺して人生を終わりにしたかった」「人生

 に絶望感があふれてた」とかいうほど「絶望」した男があげた

 らしいことは「行政の窓口などで自分だけ違う対応をされたと

 感じた(冷たく扱われた)。自分にだけ配送物が届かなかった」

 とかいうひどく些細な事なので驚くしかない。

  もちろんこれだけではなく、「自分だけが!まともな人間と

 して扱われなかった」とこの男が受け止める様な様々な出来事

 があり、仕事の上でも何か躓くような事があったらしい。

 

  ともかく「自分だけが疎外されている」かのように落ち込ん

 でいる。こうした些細な事態を「自分は『世間』の一員として

 認められていない」というメッセージとして受け止めている、

 そして「絶望」しているようなのだ。

  まさに男が自分を「疎外」していると感じているのが、自分

 の周り、自分がそこに生きていると思っていた「世間」に違い

 ないのである。

  それは非常に狭い世界であるのが特徴だ。

 

  しかもすでに40才にもなる男が起こした事件に両親がマスコミ

 に引っ張り出されて謝罪する(させられる)などというのも、

 男が個人として自立してないことを鮮明にしている。

  またマスコミも事件を男「個人」のそれではなく「家族」にも

 責任があるかのように扱って何の違和感も感じてない。

 

  また私たちももし当事者であったとしたら何らかの形で、被害

 者家族にお詫びしないで済むとは思えない。もう「40才にもなる

 独立した男が起こした事件である」と突き放せるかというとどう

 もそうはいきそうにない。

 

  私たち自身がその後「世間」で生きていくためには多分そう

 (おわび)せざるを得ないのだ。

  そこには強い「世間」からの圧力があるばかりでなく、圧力

 があると感じるように私たちは「世間」に生きてきたのだ。

  どう見ても日本では「世間」から独立した「個人」はいないか

 あるいは「はみ出しもの」として生きるとなる。

 

  それではこの様に私たちを縛っている「世間」とは何か?と

 なると分かっているようで分からない。昭和歌謡には「貧しさに

 負けた、いえ世間に負けた、この街を追われた、、、」などという

 歌があったくらいだが、言葉としては最近あまり耳にしなく

 なっているのも事実。

  表向きは日本も個人が社会を作っているような体裁を取って

 いるからなのだが。

 

  「西欧では社会というとき、個人が前提となる。個人は譲り

 渡すことのできない尊厳を持っているとされており、その個人が

 集まって社会をつくる、、、個人の意思に基づいてその社会のあり

 方も決まるのであって、社会をつくりあげている最終的な単位と

 して個人があると理解されている。日本ではいまだ個人に尊厳が

 あるということは十分に認められているわけではない。しかも

 世間は個人の意思によってつくられ、個人の意思でそのあり方も

 決まるとは考えられていない。世間は所与とみなされているの

 である。」「何となく自分の位置がそこにあるものとして生きて

 いる」のである。    (『「世間」とは何か?』 阿部謹也)

 

  (続)