「日本国」はいつ始まったか? 1 | 鬼川の日誌

「日本国」はいつ始まったか? 1

  「日本」の名称(日本国はいつ始まったか)
     CF 『よみがえる卑弥呼』 『失われた九州王朝』 古田武彦
                      
(19、5元記 改定あり)


  「中国の古都・西安で見つかった墓誌に、「日本」との文字がある

 ことを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の作と考え

 られる・・日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の

 大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが・・」

  (朝日新聞、11,10,23)
  この記事を書いた記者は少なくともアナクロな『皇国史観』には

 立っていない様だし、今の中学、高校の教科書の解説なのかな。

  この墓誌は祢軍(でいぐん)という百済の軍人の墓誌だという。

 678年2月に死亡し、10月に葬られたと記されているという。

  ところでこの祢軍は唐側からの使者の一員として665年

 (天智4年)に列島に派遣されている。国史は劉徳高、もう一人の

 使者が郭務悰。これは「日本書紀」に記されている。

   *
  この唐からの一行は「7月28日に対馬に至る。9月20日に筑紫

 に至る。22日に表函を進(たてまつ)とさりげなく書かれて

 いる。ここに重大な「紙背の事実」が隠されている。

   表函とは本来中国の天子に対して夷蛮の王から奉る「上表文の箱」

 のことだ。ここでは唐朝の天子が上表文をよこしたことになっている

 が、これは他の国から日本へ使者が来ればすべて朝貢とみなすという

 「日本書紀」独自の表現である。

  (もちろんこれは中華思想、中国の史書の裏返し、まねごと)

  さて問題は使者は20日に筑紫に至り22日に「表函をたてま

 つった」のだから当然「筑紫において」だということになる

 すなわち、中国の天子が詔書を使わして来たのは、まず筑紫の

 『九州王朝』に対してなのである。

 (『日本書記』の編者はこの『九州王朝』の存在を隠したかった。)

  近畿大和の天皇に対しては後(11月)に面会しているのだから、

 ここで「表函をたてまつる」のは大和の天皇が唯一の支配者だと

 すれば筋が通らない。

  そして本文では9月23日に唐国は同じ使節を「大和の天皇家へ

 遣わした」とある。(次の日に大和へ向け出発した。)

 

  ここは「表函をたてまつる」の意味をごまかすか、「矛盾している」

 とするのが従来の解釈だった。二つの王朝の並立ということを前提と

 しない限り解けない謎だったのである。

  そしてこのときの唐朝の国史派遣の目的はこれまでは倭国を列島の

 王者として認めてきたけれども、まさに現665年時点において

 「倭国と日本国といずれが『日本列島』を代表する王朝としてふさわし

 いか」を観察するためであったと思われるのである。

   *

  また同じ665年、唐朝の天子高宗は、百官のもと、四方の夷蛮の

 諸王を統治する古の聖天子の祭りを今に再現しようと、666年正月

 に泰山にて「封禅の儀」という祭りを行うという号令を下した。
 「百済にあった劉仁軌は665年8月以降、新羅、百済、耽羅、倭人

 ら4国の使と共に、泰山に向かった」(『冊府元亀』)という。

  つまり高宗に従った夷蛮の諸国の中に倭人(倭国)も加わっていた。
 ところがこの時点、日本書紀、天智紀(天智4年)には、この「泰山

 の召集」に対応する記事がないのである。
  666年正月までは倭国=九州王朝が日本列島の代表の王者として

 その終末の影をとどめていたようである。

   *

  ところで
この665年という時点は唐・新羅連合軍によって、

 倭・百済連合軍が壊滅的な敗北を喫した「白村江の戦い」663年

 8月のまさに2年後のことである。


 * 664年に百済は滅亡した。そして668年には唐の援助を受け

 た新羅によって高句麗が滅ぼされた。この滅亡百済の軍人祢軍が、

 今は唐朝の使節として列島に派遣されたということだ。

  そして日本書紀に記述された祢軍の実在がその墓誌が見つかった

 ことにより傍証されたわけだ。

  

 # このことはまた古事記、日本書紀は6~8世紀天皇家の史官の

 たんなる「造作」だ―戦後史学―とする誤謬も明らかにするものだ。

  白村江の戦のとき近畿天皇側が動員したと思われる軍勢は、「斉明

 天皇の崩御(661)に対する服喪」を名としてほとんど戦闘には

 参加していない。天皇・皇太子をはじめ藤原鎌足等の重臣を含めて、

 誰一人「戦死」していない。


  この白村江の戦いで壊滅的な敗北を喫したはずの「倭国」が近畿天皇

 家中心ではなかったことを、それは逆に雄弁に物語っている。

  倭国の王者たる筑紫の君「薩夜麻」は唐側の捕囚の身となっていた。

 明らかにこの戦いが「倭国」衰退の画期となったことは疑いえない。

  そして痛手を受けなかった近畿天皇家側が、列島の王者として躍り

 出る転換点となったと思われるのである。

  事実この大敗戦のわずか半年後(664年2月)、天智3年に

 「絢爛たる叙勲(冠位制定)」などの儀式が近畿天皇家において執り

 行われている。

   **

  『旧唐書』は「倭国伝」と「日本伝」とにはっきり分かれている。
 日本国とその国号の成立について
 1、 日本国は倭国の別種なり。
 2、 その国、日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。
 3、 或はいう、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて

    日本と為す、と。
 4、 或はいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地をあわせたり、と。

  このころは近畿天皇家の遣唐使も653年頃から入国していた

 ことは間違いないし、何より阿倍仲麻呂のような唐に居ついた知識人

 もいた。列島側からの情報の提供には事欠かなかったはずであるから、

 これがいい加減なものではありえないのである。

   ** 列島の王者交代

  では列島の王者はいつ交代したのだろうか?
 『旧唐書』によれば倭国遣唐使の最後の年は654年日本国遣唐使

 (正史記載)最初の年は702年。この間48年。

  先に見たように663年に白村江の戦があり、666年の正月

 「泰山の召集」に参加したのは敗残の倭国である。多分この辺が

 倭国の外交の最後のようだ。 

  やはり663年の白村江の戦いが画期であったことは間違いない。

  そしてこの戦いで唐と共に勝利した側の新羅の歴史が『三国史記』

 の『新羅本紀』に記されている。

  このときの新羅の王が文武王(661~80)である。 

  『(文武10年=670年、12月)倭国、更えて日本と号す。

 自ら言う「日の出づる所に近し。」と。以て名と為す。』

  そして『旧唐書』に、『702年冬10月、日本国、使を遣わして

 方物を貢す。』

  と記されて日本国が正式に唐側から王者として認められたことを

 見ればこの670年の「国号の変更」と記されていることが、単に

 国名の変更ではなく、中心権力が筑紫から大和へ、近畿天皇家へ移動

 したことを宣言したときであると思われる。

  (この経緯からすれば678年の祢軍の墓誌に「日本」の文字が

  あっておかしくはないのは明らかだ。)


  そしてこの新羅文武10年は、天智9年であるから、天智が近畿

 天皇家の列島支配を宣言したときの天皇だった。

  しかしその天智は翌10年(671年)12月に崩じた。 
 
   *
  
  しかしながら列島支配を確立した天智の子、大友の皇子(弘文)

 は天智の弟天武とその妻持統によって、自害させられた。

  壬申の乱である。
   
  そしてこの天武・持統の後継王者たちによって、完成させられた

 のが『古事記』『日本書紀』なのであるから、自分達は反逆者では

 なく、自分達こそ天智の遺志を受け継いだ正統の王朝であることを

 書き記すことが、記紀の最終のテーマだったと言えるのである。
   
   *

  だがしかしその日本書紀に、倭国に変えて日本国が船出したことを

 華々しく特筆大書きしなかったのにはもちろん訳がある。

  実在したはずの「廃倭国、建日本国」の詔勅が、日本書紀中から

 カットされたのは、「神武即位年を持って日本国の創建」とする立場

 からである。
  古の昔から近畿天皇家が、日本国が、列島を支配してきたとする

 大義名分がこの日本書紀の根本のテーゼだからである。

  (「削偽定実」) 
  日本を名乗り列島の支配権を握ったのが、まさにその記紀の直前、

 670年頃であったにもかかわらず。