日本国はいつ始まったか? 2 | 鬼川の日誌

日本国はいつ始まったか? 2

  日本国成立前後(時間経過の整理)

 

 

 

  *663年8月 「白村江の戦い」

    唐・新羅連合軍によって、倭・百済連合軍が壊滅的な敗北を

    喫したーー倭国衰退の画期

 

   664年2月(天智3年) 叙勲の儀式(冠位の制定等) 

    「壊滅的」に敗北したはずの「倭国」が近畿天皇家では

    ないこと

 

   664年 百済滅亡

 

  *665年 唐朝の使者列島に派遣

    (劉徳高、郭務悰、元滅亡百済の軍人祢軍、等) (天智4年)

     日本書紀に記載あり

    7月28日に対馬に至る。9月20日に筑紫に至る。22日に

      表函を進(たてまつ)る

    9月23日同じ使節を「大和の天皇家へ遣わした」ー

    11月に面会

 

   666年正月 唐朝の「封禅の儀」に出席したのは「倭人」

    (倭国) 天智紀には記事がない

 

   668年 高句麗滅亡

 

  *670年 新羅の王(文武王)、『新羅本紀』に記載

    『(文武10年=670年、12月)倭国、更えて日本と号す。

    自ら言う「日の出づる所に近し。」と。以て名と為す。』 

 

  ** 670年は天智9年、中心権力が筑紫から大和へ、

     近畿天皇家へ移動したことを宣言した時と思われる。

 

   671年(天智10年)12月 天智死去

 

   672年 壬申の乱 天武、持統の勝利

 

  *その後継王朝による『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)

 

   (678年2月 祢軍死去、、、墓誌発見 2011年発表。)  

    日本書紀に記述された祢軍の実在が傍証された。

    「日本書紀は8世紀の史官による『造作』」とする戦後史学

    (津田学説)の誤謬の証明の一つ

 

  『702年冬10月、日本国、使を遣わして方物を貢す』

   ー 『旧唐暑』 唐側の日本国正式認定。