日本の女性像 2 | 鬼川の日誌

日本の女性像 2

  14世紀以前、太良庄の女性たち

     (『日本の歴史をよみなおす』から)

 

 

  * 問

  14世紀以前、若狭国「太良庄の女性たち」についてまとめると。

   ー広い社会的な活動ー

  (所領の管理、所有権、処分権を持つ。鎌倉殿の御家人もいたし

  勇武をもって知られた女性もいた。多様な役職に就く女性、

  公文織、名主、預所。)

 

  *ジェミニ(適当に縮め要約してます)

  網野は、若狭国太良庄(たらのしょう)に関する詳細な史料分析

 を通じて、14世紀以前の日本社会における女性の、従来の歴史観と

 は異なる姿を明らかにした。特に注目されるのは、女性たちが広い

 社会的な活動に従事し、経済的・法的な権限を持っていた点です。

  * 若狭国太良庄の女性たち:14世紀以前の特質

  ※ 所領の管理、所有権、処分権の保持:
  太良庄の女性たちは、単なる家族の一員としてではなく、独立

 した主体として所領(土地)を管理し、その所有権を有し、さらに

 売買や寄進といった処分権まで持っていたことが、東寺百合文書

 (とうじひゃくごうもんじょ)などの史料から明らか。        
  これは、後の近世において土地の所有権や処分権が男性家長に

 集中していく姿とは大きく異なる。彼女たちは、自らの経済的な

 基盤を自らで築き、維持する能力を持っていたのです。


  ※ 鎌倉殿の御家人としての女性:
  太良庄には、鎌倉幕府の御家人として位置づけられた女性が存在し

 ました。御家人とは、将軍と主従関係を結び、軍役などの奉公の義務

 を負う代わりに、所領の保障などの恩恵を受ける存在です。
  女性が御家人として認められることは、当時の社会において、女性

 が武士としての役割や義務を果たしていたことを意味します。


  ※ 勇武をもって知られた女性:
  文献の中には、勇武(ゆうぶ)をもって知られる女性の存在が示唆

 される記述も散見されます。直接的に戦場で活躍したというばかり

 ではなく、紛争や訴訟において自らの権利や所領を守るために積極的

 に行動する女性たちがいたのです。
  これは、中世初期の日本社会において、女性が男性と同様に、自己

 の権利や利益を守るために物理的な力や精神的な強さを発揮すること

 が許容されていたことを示しています。


  ※ 多様な役職に就く女性たち(公文織、名主、預所):
  太良庄の女性たちは、荘園の管理運営に関わる様々な役職に就いて

 いました。


  公文(くもん): 荘園の事務を司る役職であり、女性がその職務を

 担っていたことは、彼女たちが読み書きの能力を持ち、行政的な手続

 きにも関与していたことを示します。


  名主(みょうしゅ): 荘園における土地の耕作単位である「名

 (みょう)」を請け負い、年貢納入の責任を負う者です。女性が名主と

 なることは、彼女たちが土地を保有し、生産活動を管理する経済的

 基盤を持っていたことを意味します。


  預所(あずかりどころ): 荘園の現地での管理を任される役職であ

 り、女性が預所として荘園経営に携わっていたことは、彼女たちが

 広範な権限と責任を担っていたことを示しています。


  これらの役職は、荘園社会の中核的な担い手として、その経済的・

 行政的な実務に深く関与していたことを明確に示しています。


  まとめ:従来の歴史観の刷新
  若狭国太良庄の女性たちの事例は、網野が提唱した「非農民」

 「職能民」「無縁」といった概念と深く結びついています。彼女たちは、

 必ずしも「家」という枠組みに閉じ込められず、特定の土地に定住せ

 ずとも、広い社会的な活動を通じて自立した生活を送っていました。

  この研究は、日本の中世社会における女性の地位が、従来の

 「男尊女卑」という一元的な見方では捉えきれないほど多様で、

 能動的であったことを明らかにし、日本史における女性のあり方に

 関する「常識」を大きく覆すものでした。

  14世紀以前の社会では、女性が経済的・法的権限を持ち、公的な

 役割を担い、時には「勇武」を示す存在として認識されていたことが、

 太良庄の史料から鮮やかに浮かび上がってくるのです。

 

  **(補)

  近世につながる16世紀の女性像も目を見張るものでしたが、更に

 歴史を遡ると土地を所有し、管理、運営権限を持ち広範な社会的

 活動を展開する女性、御家人つまり武士としての役割を持ち、更

 には勇武をもって知られる女性たちの存在など、男性に伍して生き

 る姿が見られます。

  

  聞き覚えのある「巴御前」(『平家物語』『源平盛衰記』)や板額

 御前 (『吾妻鏡』)といった「勇武をもって知られた女性がいたこと

 は事実と見られます」し、「御家人」つまり武士、さらに「女地頭」

 もいたわけで、問題はそういう女性が社会的にあり得たということ、

 つまり女性の社会的な役割が、後世より遥かに大きかったという

 点にある。

 

  つまり16世紀の女性像より14世紀以前の女性の方が社会的役割が

 大きかったのです。ということは時代を遡ればさらに女性の役割は

 大きかったはずで、そしてそれが事実なのですから、歴史は女性の

 役割が徐々に狭められ、抑圧が強まっていくものでもあったと言え

 るのだから問題なのです(女性史の面から見れば)。

 

  そして(近世)近代に家父長制が強固になり女性差別が完成し、

 戦後になった今もなおその軛から抜け出ているとは到底いえず、

 (女性差別が完成した時点からそれを前提として歴史を見ている)

 歴史的後退から解放されているとはとても言えないという現実に

 あるのです。

 

 * 今議員とか会社の役員とかの女性の割合を何割以上にするとか

  を無理にでも決められるのが、西欧の先進的な国家の例として

  取り沙汰されたりするが、はるか昔の日本の「太良庄の女性たち」

  (社会的役割を果たす女性達がどれだけの数、割合、いたのかは

   分かりようもないが)

  から見れば、ちゃんちゃらおかしいというしかない。

  明らかに何かが間違って歴史は作られてきたとしか言いようがない。