死の「人称」による異質性 | 鬼川の日誌

死の「人称」による異質性

  死の「人称」とは

 

 

  22年の7月に山友のN・Tさんをガンで亡くした。入院する直前まで

 一緒にジムクライミングを楽しんでいた山友とはいえ、ガンで入院したと

 いうことも知らず経過を全く知らされてなかったものにとっては、会えな

 かった3ヶ月弱での旅立ちはあまりにも突然のことだった。

  家族にしてみれば連絡を取れるのは極親しい人だけだった。

  その後Tさんの遺骨は山に散骨された。23年5月に仲間達で散骨場所

 を尋ねて慰霊登山を行った。

 

  そしてまたこの7月の同じ日(ちょうど1年後)に山友のI・Eさんが沢

 での滑落事故で亡くなった。これはさらに本当に突然の衝撃だったし、

 巡り合わせの不思議にもひどい悲しみを覚えた。

  Eさんとは数多くの山スキーで一緒になり、沢登り、アルパインクライ

 ミングでザイルを繋いで登った仲間だった。残念でならない。Eさんの山

 登りは相当に幅広かった。それだけに仲間も多く葬儀には色々な山岳会、

 山スキークラブの大勢の友達が詰めかけた。

 

  *

 

  柳田邦男は「死の『人称』による異質性」という問題提起をしている。

  

  「死の『人称』とは、誰の死なのか、つまり『私の死』なのか、『(愛

 する)あなたの死」なのか、『彼(彼女)の死』なのかという属性の問題

 です。」

 

  「(1)『一人称の死』は、自分自身の死ですから、自分はどのように

 最後の日々を過ごし、どのような死の迎え方をしたいのかという、人生の

 締めくくり方の美学をしっかりと持つことが重要です。」

  つまり「がんや難病などの末期になったとき、病院、ホスピス、在宅の

 どこを選ぶのかとか、延命措置をどうするのかといった問題について、

 はっきりした『リビング・ウイル』を」家族に話し、文書にするなどが

 必要となる。

  「同時に、医師側も患者の『リビング・ウイル』を尊重するようになっ

 て欲しい」、90年代になってからは尊重する傾向が広まっている。

 (70〜80%になっている)

 

  「(2)『二人称の死』は親、連れ合い、子供、兄弟姉妹など、生活と

 人生を密接に共有し合った肉親の死です。時には、恋人の死、戦友の死も」

 その性格を持つ。

 

  「二人称の死」の特殊性ー二つの側面

  第一の側面

  それに直面する人は「愛する人の最後の日々を支え、その人生のより

 よき完成のための支援者となり、最後の看取りをする立場にある」という

 こと。「死にゆく人の『リビング・ウイル』を実現するために、医療者の

 協力を求めてできる限りの努力をしなければ」ならない。

 

  第二の側面

  「二人称の死」つまり「愛する人の死」「連れ合いや子供を喪った」

 体験をした人は「悲しみと心のなかにあいた空白を抱えて、どのように生

 きていくか、そのための『グリーフ、ワーク』に取り組まなければならな

 くなるということです。」

 (グリーフは深い悲しみを意味し、ワークはそれから立ち直ることを言っ

 てると思う。他からは立ち直りを助ける「グリーフ・ケア」となる。)

 

  「グリーフ、ワーク」は時間がかかる。「心の癒しのテンポ」は、本人

 の性格や人生観や生き方や周囲の人々の支え」などによるが、「もう一つ

 重要なのは、愛する人の死が納得できるものだったかどうかに大きく左右

 されるという点です。」

 

  死にゆく人が「せめてこれだけはやっておきたいと願ったことをなんと

 かやりとげ、苦痛のない穏やかな最後を迎えることができたとき」また

 「二人称」の立場の人が「やれるだけのことはやったと納得することが

 できたとき」には「グリーフ、ワーク」は比較的容易になるが、その反対

 の場合はかなり難しくなる。

 

  「事故や災害で愛する人を失った場合、『グリーフ、ワーク』が困難に

 なるのは、死があまりに不条理で納得できないからです。」

  (Eさんの事故の場合はご家族はとても納得できるものではなかったで

 しょう。そしてTさんの場合もがん宣告から旅立ちまでがあまりにも急な

 ものだったから、ご家族もきつかったことと思います。)

 

  「(3)『三人称の死』は、親戚の人や友人、知人からアカの他人まで、

 家族以外の人々の死です。」

  「『三人称の死』に対して、人はかなり冷静でいられ」る。「アフリカ

 で百万人が餓死しても」痛みは感じても「食事ができなくなったり不眠に

 なったり」はしない。全ての死に対して二人称の死と同じような衝撃を受

 けたりしていては生きていられないからです。冷淡とは違う自己防衛本能

 の働きだと言える。

 

  (二人称の死と同じようにイスラエルによるガザのパレスチナ人の虐殺

 を受け止めることができた「アーロン・ブッシュネル」は抗議の焼身自殺

 を遂げた。)

 

  能登半島地震などの被災者の支援ボランティアに駆けつけた人たちは、

 地震災害の死を単なる「三人称の死」以上のものとして受け止めている

 人たちなのだろう。

 

  医者や看護師にとっても患者の死は「三人称の死」ではあっても、患者

 の「生と死」に深く関わり合い、患者の人生を支える立場になるから、

 「二・五人称の死」というべきか。

 

  山友を失うということは(TさんとEさんの場合でも違うし)、仲間とし

 ての活動経歴によっても違うが、「二人称の死」や「戦友の死」とまでい

 えなくてもこれに限りなく近いかまたは「二・五人称の死」と感じた仲間

 が多いのではなかろうか。少なくとも単なる「三人称の死」ではない。

  とても残念でならないし、「死」を身近に引き寄せるものであった事は

 間違いない。 

 

  (『僕は9歳の時から死と向きあってきた』 柳田邦男)