あきつのとなめ
蜻蛉(あきつ)島とはどこか
(2014,6,19記一部改)
「今大騒ぎになっているSTAP細胞は実はES細胞だったのではないかと
いう話になりかかっていて、小保方さん大ピンチである。後は小保方さんが
再現実験で証明するしかない。しかしこれで再現できないとなったらえらい
ことになるが。」
・・結局再現できなかった。STAP細胞は幻だった・・
ところで分子生物学に少しでも興味を持っていない限り、では「ES細胞」
とは何なのかも余り知られていることではない。
cf、13年の私の雑記帳ブログがほとんどこれに関することです。
13年3月13日、3月21日、4月8日のブログ。
分子生物学者福岡伸一ハカセの本に『やわらかな生命』というのがある。
この中でハカセは日本古代史にも興味を持っているらしいことを窺わせる
文を書いている。
* あきつのとなめ
この本の二章「野生と生命」に「トンボの体位」という節がある。
トンボは交尾し連なったまま飛行していることがある。これがなかなか
アクロバティックな体位で、前のオスが「つ」の字型に胴体を曲げて尻尾で
後ろのメスの頭を捕らえ、後ろのメスは「し」の字型で尻尾の先をオスの胸
のあたりに差し込んでいて、連結してハート型をなしている。
これはトンボの生殖器が尻尾の先にあり、オスは交尾の前に自分の尻尾
から精子を胸に貯めておき(交尾の時には尻尾でメスを捕まえなければなら
ないので使えないから)、「普通の場合(?)と違って、メスがオスに挿入
して」、精子を受け取っているので、こういう形になるのだそうだ。
これを古代人は「あきつのとなめ」と言った。あきつ(蜻蛉)とはトンボ
のことだ。となめは「臀呫」という字が当てられ文字通り尻をなめる(なめ
あっているように見える)で、トンボの特徴的な交尾のことである。
さて「日本書紀によれば、神武天皇が山に上り、大和の国を見渡した。
『あなにや、国を獲つること(なんとすばらしい国をもったことか)。
うつゆふのまさき国といへども(せまい国ではあるが)、あきつのとなめの
如くにあるかな』。
となめ、とは交尾のことである。国土の風景が、トンボの交尾のようだ、
とはどういうことだろう。山々が幾重にも連なっている様子のことだろうか。」
とハカセは書いている。この後先のトンボの交尾の解説があるのだ。
ハカセが引用しているのは『日本書紀』の「神武紀」の末尾にある記事で
ある。続いて「是によりて始めて秋津洲の号有るなり。」と書かれているよ
うに、大和の国を秋津洲(あきつしま)と呼ぶようになった、謂れを記したもの
とされている。しかしハカセも書いているように、それがトンボの交尾のよう
だとは一体何のことだろう、
それはハート型であって、「山々が幾重にも連なっている様子」なら、この
日本のほぼあらゆる地点でいえることで、その特徴的な形に例える理由は
どこにもない。
ということで何のことやら分からないままの難解部分だった。まさき国の
前にあるうつゆふ(内木綿、うちゆふ)」も意味不明とされている。
そしてこれは日本古代史学会では解けない謎だったのである。
私はあれだけ博識のハカセが、日本古代史に関しては、あくまで常識的な
通説に依拠していることに何度か驚かされた。
(通説=津田史学そのままの「神武」架空説ではないようだが。)
さてこの謎を解き明かしたのは在野の古代史学者、古田武彦である。
直接この部分を問題にしているのは、『盗まれた神話』(角川文庫)の第六章、
「蜻蛉島あきつしまとはどこか」である。謎は見事に解き明かされている。
これを読んでもらえればそれでいいのだが、それに到達するためには相当な
前提があり、これを私なりに解説してみたいと思う。
もちろん「私なりに」以上のことではありえない。私たちにまとわり付いて
いる常識をひっくり返す作業となり、実に大変なのである。
* 「邪馬台国」論争
ハカセの『動的平衡2』にも「卑弥呼の墓とされる奈良県箸墓遺跡」という
ことが何の疑問もなく書かれていたりする。「邪馬台国」の卑弥呼がいたのは
今の福岡県、博多湾岸以外にはありえないことは、既に何十年も前に古田武彦
が、完膚なきまでに明らかにしたことである。
せめて古田の3部作、『「邪馬台国」はなかった』、『失われた九州王朝』、
『盗まれた神話』を読んでいれば、「邪馬台国畿内論者」たちが「卑弥呼の墓」
と想定しているに過ぎないこと、そしてこの通説はありえないことを、どこか
に書き記したはずなのである。
* 九州王朝=倭国
古田は『魏志倭人伝』の原本を渉猟し、著者「陳寿」を信じとおし安易な
原文改定はしないことをモットーとして貫いた。そしてそこには「邪馬台国」
という表記ではなく「邪馬壱国」と書かれていること(これが『「邪馬台国」
はなかった』とする表題の直接の意味だ)を、実証的に明らかにすること
から始めて、卑弥呼が女王であった国が、九州博多湾岸以外ではありえない
ことを読み解いていった。
* 3世紀の『魏志倭人伝』には正確には「邪馬壹国」(やまいちこく)という
表記。
5世紀の『後漢書、倭伝』には「邪馬臺国」、これもヤマダイコクであって
ヤマトとは読めない。臺と台とは意味も異なり別字であるにもかかわらず
邪馬台国ヤマト論者はトとも読める台と混用してきた。
(ヤマイチコクでは理解できない-近,現代人の頭で-からというのが
まずあったに違いない。幸い5世紀の後漢書にはヤマダイコクとある。
臺と台とは意味も異なり別字であれそれを無視して、同じダイでこれはト
とも読める。これならヤマトで理解できるというわけだ。)
卑弥呼の時代は銅剣、銅矛の文化だが、その鋳型の出土が、そしてその頃の
甕棺と沢山の王墓が圧倒的に博多湾岸に集中しているというこの決定的な物証、
考古学的な事実にもそれは裏付けられている。
そしてこの邪馬台国畿内論者との論争を通じて、古田はこの「耶馬壱国」
の後継が「倭国」であり、それは九州王朝であったことを明らかにした。
* 「神武東征」(東侵)
さらにこの九州王朝の分流(日向を出自の地とした)としての「神武」
一派が、九州を脱出して畿内の銅鐸文化圏に侵入し、土地の王等をだまし討ち
にして(後の神武は銅鐸文化圏の王者「長脛彦」には結局勝てなかった)、
大和の地に小さな根拠地を作ったのがいわゆる「神武東征」(事実は国家の
軍隊が東方を征伐するなどというものではなく、少数の武装集団神武一派が
東方の銅鐸国家の一部を侵略した東侵)の中身であることを古田は論証した。
侵略に成功した「神武」一派は銅剣、銅矛文化の出であり、異文化であった
銅鐸を徹底的に破壊した。その後第10代の崇神以降に銅鐸文化圏を飲み込ん
でいく。
(これによって)銅鐸文化は歴史的に突然消滅してしまっていて、これが謎
とされてきたのだが、これは「神武」一派(とそれ以後の)侵略による銅鐸
文化の破壊を史実として据えれば、解ける謎なのである。
そしてこれこそが近畿天皇家の始まりであり、「後の神武」は大和盆地に
小さな根拠地を確保した、小数の武装集団の一部族長だったに過ぎない。
だからこれは「日本建国」とは何の関係もないし、そもそも「天皇」とか
でもありえず、即位とか、即位の日とかはもちろん後世になってからのでっち
上げに過ぎない。
2月11日が「建国記念日」などというのはまったくの噴飯ものなのである。
それにしても後の「神武」(若御毛沼命(わかみけぬのみこと))の実在など
を言おうものなら即「皇国史観」で、9代までの天皇は後世のでっち上げ
とするのが戦後史学=津田史学で、この二者択一以外はありえないのが
「常識」となっている。
しかし戦後史学も近畿天皇家一元主義であることには変わりなく、
「皇国史観」の本当の根っこを掘り崩す力は持っていないことを看破し
たのが古田である。
* 倭国から日本国へ
この九州王朝「倭国」の分流=分家としての近畿大和王権が、徐々に力を
付けてきて、倭国の衰退に乗じて権力を簒奪した(「日本旧もと小国倭国の地
を併あわす」『旧唐書』)のが、天智天皇の頃である。
(私のブログ「日本」参照)
決定的には倭・百済連合軍が唐・新羅連合軍に壊滅的な敗北を喫した
663年8月の「白村江の戦い」であり、ここが倭国衰退の画期となった
ようだ。
次の年664年に百済は滅亡したし、またこの戦いで「倭国」は壊滅的な
敗北を喫したはずなのであり、それ以後隆盛してきたのが近畿天皇家であり、
「倭国」とは近畿天皇家が代表していた国ではありえない事を、「白村江の
戦い」は逆に証明していることでもある。
(近畿天皇家の軍勢はほとんど戦闘には参加していない。天皇、皇太子、
そして藤原鎌足等の重臣も誰一人戦死していない。)
戦いに勝利した側の新羅の歴史書『新羅本紀』に、新羅の文武王10年=
670年12月「倭国、更えて日本と号す。自ら言う『日の出づる所に近し』
と。以て名と為す」と記されている。
これが単なる名称の変更ではなく、権力が「倭国」から「日本国」へ、
近畿天皇家へ移行したことを宣言した画期と思われる。
この年は天智9年であり、天智は10年(671年)に崩じている。
そして天智の子大友の皇子を自害に追い込んで権力を掌握した(壬申の乱)
のが、天智の弟天武とその妻持統である。
この後継王朝が派遣した遣唐使が、「702年冬10月、日本国、使を遣
わして方物を貢す。」と『旧唐書』に記され、唐から(倭国に代わり)日本国
が列島の王者として正式に記載されることとなったのである。
だから対外的にも「日本国」が正式に出発したのはこの702年である。
(続く)