鎌倉散歩
名越切通しから朝比奈切通しへ 14,4,9
前日は陣馬山でお花見山行。しかしまだ山の桜は咲い
てなかった。まあ半分は飲み会のようなもので、おいしい
ものをたらふく食べさせていただいた。
この日は雑草ヒメオドリコソウを接写してみた。高画質の
設定になっていたので、かなり細部まで撮れた。こうして
みると、それなりに凝っていて面白い花だと思える。花は
すべてそうだが、こんなにも複雑に凝った造形になるまで
にどれだけの年月が過ぎ去ったのだろうかと思う。
さて今日9日は連荘となってしまったが、また別のメンバー
たちと鎌倉散歩である。
今回はしばらくあれやこれやの用事で忙しく、余り山歩きが
出来ないとぼやいている人の足慣らしとして計画したもの
である。以前この人たちと鎌倉七口の中五つを歩いたので
今日は残りの二つを歩くことにした。実は3月27日にも
同じ趣旨で計画して集まったのだが、あいにくの雨だった。
鎌倉駅から逗子方面に歩き始める。20分ほど歩いて
横須賀線の踏切を渡ると、名越(なごえ)切通しへの案内
があり、線路沿いの住宅地を歩いていく。
サクラソウが見事に咲いている。ところでこの桜草には
微量だがウルシの成分があるということを、ご存知だろ
うか?触るぐらいではもちろん何ともないのだが。
古い井戸がある。鎌倉十井には入ってないようであるが
記念碑もあり、立派な囲いもあるから曰くがありそうだ。
今の季節シャガがきれいである。
踏切を渡り線路沿いに高台に上がっていくと名越切通し
の入口となる。雰囲気のある道となり、道端にはウラシマ
ソウが糸を垂れている。マムシグサなどと同じテンナン
ショウ属。科はサトイモ科でこれに属するものは毒がある
ものが多い。それにしてもこの釣り糸様は何のため?
切通しの道にはわざと残したといわれる大石が道の真ん
中に鎮座していたりする。
まんだら堂やぐら群は時折ゲートを開けるらしいが、今は
中に入れない。
やぐらとは鎌倉時代の横穴式の供養施設(つまりお墓)で
切通しの至るところにあり(天園のハイキングコースにも)、
実は鎌倉の山は総体が墓地のようなものなのだ。
ここには150基も集中しているそうだ。死者を荼毘に付した
跡等もあるらしい。そしてこのやぐら群の崖下には、現代の
火葬場がある。
中世の「葬送」や墓地などの考え方は現代とはまったく
違ったものだった。なにより、中世どころか近代まで、我が
日本には「個人」という言葉自体がなかったわけであるから。
私たちは普段使い慣れている言葉を使って、江戸期以前
の歴史を考えがちである。しかしその言葉自体が比較的新
しい明治期に作られたものであることが多い、ということを
知らなくてはならない。科学技術系のものはほとんどが翻訳
語であるが、そればかりではないのだ。
* 個人という言葉は明治になって、英語のindividualの翻
訳語として作られたものである。それまで日本「社会」には
「個人」という概念はなかった。ということはナンノタレベエは
いるけれども、それは「個人」としては意識されなかったのだ。
また「社会」もsocietyの翻訳語である。それに近く日本人的
特徴のある集団は「世間」である。だから社会を作る西欧的
個人と、「世間」という集団に埋没した日本的個人とは、非常
に異質なものなのだが。この違いは未だに尾を引いている。
(『世間とは何か』『日本人の歴史意識』 阿部謹也)
ゲートから中を覗いて見る。
まんだら堂から少しで、騎馬の通過を妨げるようにした
防衛拠点として有名な切通しに出る。崖の上には待ち伏せ
出来るような場所(平場)がある。
また元に戻り法性寺の方に降ってみる。
猿畠山のお堂の脇に日蓮が布教の迫害を受けて、白猿
に導かれて隠れたという伝説の岩屋がある。
(猿畠山の名前もこの伝説からきたものでしょう。)
あたり一帯は現代のお墓が、やぐらと共存している。
奥に見えるのは鎌倉最大の「大切岸」という人工的に削
った崖であり、切通しと同じく逗子方面からの侵入防止の
防衛拠点だったと言われている。高さもあるし長さも相当
なもので、大変な難工事だったろう。
鎌倉や逗子方面でよく見られるカントウタンポポらしい。
また上に戻り、大切岸方向に進むと、大切岸を間近で
見られるように平場が整備されて木材チップを敷き詰め
た散歩道になっている。(行き止まり)
この崖は適度なホールドがあり、現代のクライマーなら
登れそうだなどと考えてしまう。
大切岸の上を逗子ハイランド方向に行くと途中見晴台
(パノラマ台)あり、鎌倉から逗子にかけての海が見渡せる。
逗子ハイランドの一角に出ると正面に布張山。いろいろ
な桜がまだきれいに咲いている。
逗子ハイランドを抜けて久木大池方面に向かう。桜並木
がまだまだきれいだった。
久木大池に来ると20人以上と思われるハイカーのジジ
ババ集団が東屋を占拠していた。こちらも負けずにジジと
ババだが多勢に無勢。ここでの昼飯を諦めて、やまなみ
ルート入口から上にあがり、行き止まり方向に適当に進ん
で適当な広場でお弁当を広げる。今日は散歩であるから、
私はビールも持って来た。一汗かいておいしい。
昼飯後、やまなみルートを十二所果樹園に向かって歩く。
やまなみルートは余り知られてはいないが、元米軍池子
弾薬庫(更に前は日本軍のそれ)、今は米軍の住宅地の
周りをぐるりと一周する山道で、有刺鉄線やコンクリートの
塀沿いに歩けばいいので、迷うことはない。
春の山で芽吹きがとてもきれいである。
やまなみルートから十二所果樹園に降り通過する。休日
にはいつも誰かが農作業をしているのだが、今日は誰も
いなかった。平日だし。
果樹園を抜けて少しで朝比奈切通しの鎌倉側入口の
三郎滝に着く。三郎とはこの切通しを一夜にして開いたと
いう朝夷奈三郎の伝説から来ているが、もちろん一夜ど
ころか鎌倉幕府挙げての難工事だったらしい。
もはや鎌倉時代のままではありえないが古くからの道。
両側はいつも苔むして湿った崖なので、初夏になるとイワ
タバコがきれいな花を付けている。
仏の彫られたやぐらが最高点。この周辺の崖はやぐら
だらけといっていいほど。
これを降っていくと途中で熊野神社の道が右に分岐する。
神社に寄ってみる。結構立派な神社だ。
神社の上からやまなみルートに通ずると思われる山道が
ある。神社で少し休み、また切通しに戻る。
トリカブト。
切通しを抜けると上に横横道が通り、六浦側の入口と
なり、工場らしき建物のそばにでる。
切通しの説明版がある。ここが終点である。
朝比奈バス停でバスを待ち、大船に出て解散した。
今日は朝9時過ぎ頃から13:45頃まで、4時間半近くは
歩いたことになる。足慣らしとしては適当だったと思う。
今度は鎌倉七口総てを一度に歩くコースを考えてみよう。
とはいえ巨福呂坂などは跡形もないから飛ばしていい。
それでも6時間は歩けるいい散歩コースになると思う。
(昨年別の仲間たちと歩いたところをほぼ逆コースで
歩いたことになる。ただ、名越切通し周辺は少し詳細に
歩き回った。)
前日は陣馬山でお花見山行。しかしまだ山の桜は咲い
てなかった。まあ半分は飲み会のようなもので、おいしい
ものをたらふく食べさせていただいた。
この日は雑草ヒメオドリコソウを接写してみた。高画質の
設定になっていたので、かなり細部まで撮れた。こうして
みると、それなりに凝っていて面白い花だと思える。花は
すべてそうだが、こんなにも複雑に凝った造形になるまで
にどれだけの年月が過ぎ去ったのだろうかと思う。
さて今日9日は連荘となってしまったが、また別のメンバー
たちと鎌倉散歩である。
今回はしばらくあれやこれやの用事で忙しく、余り山歩きが
出来ないとぼやいている人の足慣らしとして計画したもの
である。以前この人たちと鎌倉七口の中五つを歩いたので
今日は残りの二つを歩くことにした。実は3月27日にも
同じ趣旨で計画して集まったのだが、あいにくの雨だった。
鎌倉駅から逗子方面に歩き始める。20分ほど歩いて
横須賀線の踏切を渡ると、名越(なごえ)切通しへの案内
があり、線路沿いの住宅地を歩いていく。
サクラソウが見事に咲いている。ところでこの桜草には
微量だがウルシの成分があるということを、ご存知だろ
うか?触るぐらいではもちろん何ともないのだが。
古い井戸がある。鎌倉十井には入ってないようであるが
記念碑もあり、立派な囲いもあるから曰くがありそうだ。
今の季節シャガがきれいである。
踏切を渡り線路沿いに高台に上がっていくと名越切通し
の入口となる。雰囲気のある道となり、道端にはウラシマ
ソウが糸を垂れている。マムシグサなどと同じテンナン
ショウ属。科はサトイモ科でこれに属するものは毒がある
ものが多い。それにしてもこの釣り糸様は何のため?
切通しの道にはわざと残したといわれる大石が道の真ん
中に鎮座していたりする。
まんだら堂やぐら群は時折ゲートを開けるらしいが、今は
中に入れない。
やぐらとは鎌倉時代の横穴式の供養施設(つまりお墓)で
切通しの至るところにあり(天園のハイキングコースにも)、
実は鎌倉の山は総体が墓地のようなものなのだ。
ここには150基も集中しているそうだ。死者を荼毘に付した
跡等もあるらしい。そしてこのやぐら群の崖下には、現代の
火葬場がある。
中世の「葬送」や墓地などの考え方は現代とはまったく
違ったものだった。なにより、中世どころか近代まで、我が
日本には「個人」という言葉自体がなかったわけであるから。
私たちは普段使い慣れている言葉を使って、江戸期以前
の歴史を考えがちである。しかしその言葉自体が比較的新
しい明治期に作られたものであることが多い、ということを
知らなくてはならない。科学技術系のものはほとんどが翻訳
語であるが、そればかりではないのだ。
* 個人という言葉は明治になって、英語のindividualの翻
訳語として作られたものである。それまで日本「社会」には
「個人」という概念はなかった。ということはナンノタレベエは
いるけれども、それは「個人」としては意識されなかったのだ。
また「社会」もsocietyの翻訳語である。それに近く日本人的
特徴のある集団は「世間」である。だから社会を作る西欧的
個人と、「世間」という集団に埋没した日本的個人とは、非常
に異質なものなのだが。この違いは未だに尾を引いている。
(『世間とは何か』『日本人の歴史意識』 阿部謹也)
ゲートから中を覗いて見る。
まんだら堂から少しで、騎馬の通過を妨げるようにした
防衛拠点として有名な切通しに出る。崖の上には待ち伏せ
出来るような場所(平場)がある。
また元に戻り法性寺の方に降ってみる。
猿畠山のお堂の脇に日蓮が布教の迫害を受けて、白猿
に導かれて隠れたという伝説の岩屋がある。
(猿畠山の名前もこの伝説からきたものでしょう。)
あたり一帯は現代のお墓が、やぐらと共存している。
奥に見えるのは鎌倉最大の「大切岸」という人工的に削
った崖であり、切通しと同じく逗子方面からの侵入防止の
防衛拠点だったと言われている。高さもあるし長さも相当
なもので、大変な難工事だったろう。
鎌倉や逗子方面でよく見られるカントウタンポポらしい。
また上に戻り、大切岸方向に進むと、大切岸を間近で
見られるように平場が整備されて木材チップを敷き詰め
た散歩道になっている。(行き止まり)
この崖は適度なホールドがあり、現代のクライマーなら
登れそうだなどと考えてしまう。
大切岸の上を逗子ハイランド方向に行くと途中見晴台
(パノラマ台)あり、鎌倉から逗子にかけての海が見渡せる。
逗子ハイランドの一角に出ると正面に布張山。いろいろ
な桜がまだきれいに咲いている。
逗子ハイランドを抜けて久木大池方面に向かう。桜並木
がまだまだきれいだった。
久木大池に来ると20人以上と思われるハイカーのジジ
ババ集団が東屋を占拠していた。こちらも負けずにジジと
ババだが多勢に無勢。ここでの昼飯を諦めて、やまなみ
ルート入口から上にあがり、行き止まり方向に適当に進ん
で適当な広場でお弁当を広げる。今日は散歩であるから、
私はビールも持って来た。一汗かいておいしい。
昼飯後、やまなみルートを十二所果樹園に向かって歩く。
やまなみルートは余り知られてはいないが、元米軍池子
弾薬庫(更に前は日本軍のそれ)、今は米軍の住宅地の
周りをぐるりと一周する山道で、有刺鉄線やコンクリートの
塀沿いに歩けばいいので、迷うことはない。
春の山で芽吹きがとてもきれいである。
やまなみルートから十二所果樹園に降り通過する。休日
にはいつも誰かが農作業をしているのだが、今日は誰も
いなかった。平日だし。
果樹園を抜けて少しで朝比奈切通しの鎌倉側入口の
三郎滝に着く。三郎とはこの切通しを一夜にして開いたと
いう朝夷奈三郎の伝説から来ているが、もちろん一夜ど
ころか鎌倉幕府挙げての難工事だったらしい。
もはや鎌倉時代のままではありえないが古くからの道。
両側はいつも苔むして湿った崖なので、初夏になるとイワ
タバコがきれいな花を付けている。
仏の彫られたやぐらが最高点。この周辺の崖はやぐら
だらけといっていいほど。
これを降っていくと途中で熊野神社の道が右に分岐する。
神社に寄ってみる。結構立派な神社だ。
神社の上からやまなみルートに通ずると思われる山道が
ある。神社で少し休み、また切通しに戻る。
トリカブト。
切通しを抜けると上に横横道が通り、六浦側の入口と
なり、工場らしき建物のそばにでる。
切通しの説明版がある。ここが終点である。
朝比奈バス停でバスを待ち、大船に出て解散した。
今日は朝9時過ぎ頃から13:45頃まで、4時間半近くは
歩いたことになる。足慣らしとしては適当だったと思う。
今度は鎌倉七口総てを一度に歩くコースを考えてみよう。
とはいえ巨福呂坂などは跡形もないから飛ばしていい。
それでも6時間は歩けるいい散歩コースになると思う。
(昨年別の仲間たちと歩いたところをほぼ逆コースで
歩いたことになる。ただ、名越切通し周辺は少し詳細に
歩き回った。)