現生人類の出アフリカ ②
続 出アフリカ
現生人類のイーミアン間氷期の北ルートからの出アフリカは
9万年前頃の氷期と以前からの住人ネアンデルタール人により
進出を阻まれたらしく、戻ることも砂漠に阻まれ失敗(絶滅)
したらしい。
*
このことはミトコンドリアDNAを使って正確な遺伝系統樹を
作ることによっても裏付けられている。
アフリカのミトコンドリアイブから枝分かれした十数のアフリカ
母系系統のうち一系統、たった一つの小枝(出アフリカイブ)
だけが大陸を離れた後も生き延びてその他の世界を殖民した
ことが分かる。
始祖となりうる遺伝子的な「イブ」系統は複数混ざってアフリカを
出たはずではあるが、そのうちの一つの系統だけが
遺伝的浮動というメカニズムで残されたと考えられている。
もしアフリカの違う地域から(北ルートと、南ルート)二つの異なる
集団が何万年も異なる時期に移動したとするとそれらは
全く違ったアフリカ系統で構成されることになるはずなのだ。
二つの移動があったのなら非アフリカ人には少なくとも二人の
イブがいるはずなのだ。しかしそうはなっていない。
この小さなグループがアフリカの外でのすべての現生人類の
集団を進化させた。成功した出アフリカは一度きりであったのだ。
ミトコンドリアDNA以外の遺伝標識、Y染色体を見てもすべての
非アフリカ人は唯一つの男系に属していることが分かる。
非アフリカ人を出現させ始祖となった出アフリカイブの年齢を
推定するとおよそ8万3千年と なる。
*
200万年前アフリカはまだアラビアとつながり海峡は乾いていた。
しかし年間15mmの割合で離れていった。
ここがついに水に漬かり-紅海-南ルートが閉ざされる前に
最後にアフリカを離れた哺乳動物の一つがホモ・エレクトスで、
彼らは東のインドから東アジアへ広がり、また180万年前には
北のレバントからコーカサス山脈のドマニシへ到達した。
ところが最大氷期がくるとインド洋と紅海の水の行き来が
ほとんどなくなるほど海面が下降した。
アフリカでホモ属の新種が現れるたびいくつかの部族は
温暖な間氷期に北ルートをとり、また他の者たちは氷期に
南ルートをとった。
過去10万年で寒冷だったのは6~8万年前でもっとも寒かった
6万5千年前には氷河作用によって世界の海面はいまより
104mも低かった。その前8万5千年前にも一時的に海面 が
80mも下降した事がある。
そして7万4千年前にはスマトラのトバ火山の噴火があった。
過去200万年で群を抜く最大級の噴火として知られるこの
大爆発はインド、パキスタン、湾岸地域を1~3mの火山灰
で覆った。
(そしてこれは時間の尺度の定点である。)
この地方で現生人類の遺跡がトバの火山灰の中に埋もれて
いれば人類は7万4千年以前にアフリカを出たことになる。
(旧石器は出ている。が現生人類と確認はされていないようだ。)
6万5千年前に人類がオーストラリアに入ったことを示す遺伝子の
根拠も8万5千年前の出アフリカのシナリオのほうが合致する。
つまりこの頃に南ルートを通ってアラビアのイエメンに上陸し、
海岸沿いに海面が低かったためにアデンからジャワの先端まで
陸地を歩いていくことが出来それから島伝いにオーストラリアへ
渡ったと思われる。
*
オーストラリア、アメリカ、シベリア、アイスランド、ヨーロッパ、
中国、そしてインドに住むすべての非アフリカ人が遺伝的に受け
継いできたものはアフリカから出たただ一つの系統にまで辿れる。
そしてこの出アフリカイブの二人の娘系統がヨーロッパ人 と
アジア人の母(ナスリーン)とアジア人の母(マンジュ)となった。
マンジュの系統は西ユーラシアには見られないがそれ以外では
ナスリーンとマンジュの子孫はあらゆる世界で見られる。
(覚えやすいように著者が名づけた名前です。)
遺伝子の系統樹はヨーロッパ人とレバント人について、彼らは
アフリカから直接来たのではなく、南のインド付近からやっ てきた
ことを語っている。
彼らの母ナスリーンはイエメンに上陸した海岸採集民がアラビア
湾の近くにやってきたときに生まれた可能性が高く、その子孫が
東と西に別れたことを物語っている。
西に分かれた子孫たちは数万年の間このアラビア湾近くの
チグリス、ユーフラテス川からなるオアシスにいたのだろう。
これには気候的な理由がありシリアとインド洋の間は常に
砂漠によってさえぎられてきた。しかしちょうど5万年前短い期間
だが南アジアが非常に暖かく緑に覆われたことがある。
(2~3000年しか続かなかったので亜間氷期といわれる。)
この間狭い緑の通路が開きアラビア湾からシリアへの移動が
可能になりアジアのイブのひ孫たちはレバント地方へ進んでいった。
これが5万年~4万5千年頃のクロマニヨン人の進出といわれる
ものである。
* ミトコンドリアのDNAを使い母方の遺伝子を共通の
祖先型まで辿っていっても、そのことは私たちの遺伝子
全てが一人の女性から由来していることを意味しない。
細胞核には何万もの遺伝子がありそのどれを標識システム
として使っても一つの共通祖先まで遺伝子系統を辿ることが
できる。
私たちの遺伝子はそれぞれの世代で混ざるため、その
遺伝子系統樹は必ずしも同じ祖先まで行き着くとは
限らない。
実際のところ現生人類が受け継いでいる遺伝子は
19万年前頃生きていた2千~1万人のアフリカ人を核と
する集団に由来するものだろう。
現生人類のイーミアン間氷期の北ルートからの出アフリカは
9万年前頃の氷期と以前からの住人ネアンデルタール人により
進出を阻まれたらしく、戻ることも砂漠に阻まれ失敗(絶滅)
したらしい。
*
このことはミトコンドリアDNAを使って正確な遺伝系統樹を
作ることによっても裏付けられている。
アフリカのミトコンドリアイブから枝分かれした十数のアフリカ
母系系統のうち一系統、たった一つの小枝(出アフリカイブ)
だけが大陸を離れた後も生き延びてその他の世界を殖民した
ことが分かる。
始祖となりうる遺伝子的な「イブ」系統は複数混ざってアフリカを
出たはずではあるが、そのうちの一つの系統だけが
遺伝的浮動というメカニズムで残されたと考えられている。
もしアフリカの違う地域から(北ルートと、南ルート)二つの異なる
集団が何万年も異なる時期に移動したとするとそれらは
全く違ったアフリカ系統で構成されることになるはずなのだ。
二つの移動があったのなら非アフリカ人には少なくとも二人の
イブがいるはずなのだ。しかしそうはなっていない。
この小さなグループがアフリカの外でのすべての現生人類の
集団を進化させた。成功した出アフリカは一度きりであったのだ。
ミトコンドリアDNA以外の遺伝標識、Y染色体を見てもすべての
非アフリカ人は唯一つの男系に属していることが分かる。
非アフリカ人を出現させ始祖となった出アフリカイブの年齢を
推定するとおよそ8万3千年と なる。
*
200万年前アフリカはまだアラビアとつながり海峡は乾いていた。
しかし年間15mmの割合で離れていった。
ここがついに水に漬かり-紅海-南ルートが閉ざされる前に
最後にアフリカを離れた哺乳動物の一つがホモ・エレクトスで、
彼らは東のインドから東アジアへ広がり、また180万年前には
北のレバントからコーカサス山脈のドマニシへ到達した。
ところが最大氷期がくるとインド洋と紅海の水の行き来が
ほとんどなくなるほど海面が下降した。
アフリカでホモ属の新種が現れるたびいくつかの部族は
温暖な間氷期に北ルートをとり、また他の者たちは氷期に
南ルートをとった。
過去10万年で寒冷だったのは6~8万年前でもっとも寒かった
6万5千年前には氷河作用によって世界の海面はいまより
104mも低かった。その前8万5千年前にも一時的に海面 が
80mも下降した事がある。
そして7万4千年前にはスマトラのトバ火山の噴火があった。
過去200万年で群を抜く最大級の噴火として知られるこの
大爆発はインド、パキスタン、湾岸地域を1~3mの火山灰
で覆った。
(そしてこれは時間の尺度の定点である。)
この地方で現生人類の遺跡がトバの火山灰の中に埋もれて
いれば人類は7万4千年以前にアフリカを出たことになる。
(旧石器は出ている。が現生人類と確認はされていないようだ。)
6万5千年前に人類がオーストラリアに入ったことを示す遺伝子の
根拠も8万5千年前の出アフリカのシナリオのほうが合致する。
つまりこの頃に南ルートを通ってアラビアのイエメンに上陸し、
海岸沿いに海面が低かったためにアデンからジャワの先端まで
陸地を歩いていくことが出来それから島伝いにオーストラリアへ
渡ったと思われる。
*
オーストラリア、アメリカ、シベリア、アイスランド、ヨーロッパ、
中国、そしてインドに住むすべての非アフリカ人が遺伝的に受け
継いできたものはアフリカから出たただ一つの系統にまで辿れる。
そしてこの出アフリカイブの二人の娘系統がヨーロッパ人 と
アジア人の母(ナスリーン)とアジア人の母(マンジュ)となった。
マンジュの系統は西ユーラシアには見られないがそれ以外では
ナスリーンとマンジュの子孫はあらゆる世界で見られる。
(覚えやすいように著者が名づけた名前です。)
遺伝子の系統樹はヨーロッパ人とレバント人について、彼らは
アフリカから直接来たのではなく、南のインド付近からやっ てきた
ことを語っている。
彼らの母ナスリーンはイエメンに上陸した海岸採集民がアラビア
湾の近くにやってきたときに生まれた可能性が高く、その子孫が
東と西に別れたことを物語っている。
西に分かれた子孫たちは数万年の間このアラビア湾近くの
チグリス、ユーフラテス川からなるオアシスにいたのだろう。
これには気候的な理由がありシリアとインド洋の間は常に
砂漠によってさえぎられてきた。しかしちょうど5万年前短い期間
だが南アジアが非常に暖かく緑に覆われたことがある。
(2~3000年しか続かなかったので亜間氷期といわれる。)
この間狭い緑の通路が開きアラビア湾からシリアへの移動が
可能になりアジアのイブのひ孫たちはレバント地方へ進んでいった。
これが5万年~4万5千年頃のクロマニヨン人の進出といわれる
ものである。
* ミトコンドリアのDNAを使い母方の遺伝子を共通の
祖先型まで辿っていっても、そのことは私たちの遺伝子
全てが一人の女性から由来していることを意味しない。
細胞核には何万もの遺伝子がありそのどれを標識システム
として使っても一つの共通祖先まで遺伝子系統を辿ることが
できる。
私たちの遺伝子はそれぞれの世代で混ざるため、その
遺伝子系統樹は必ずしも同じ祖先まで行き着くとは
限らない。
実際のところ現生人類が受け継いでいる遺伝子は
19万年前頃生きていた2千~1万人のアフリカ人を核と
する集団に由来するものだろう。